何年か前、香港小姐、つまりはミス・香港の候補者の一覧を拝見した事があるのだが、そのプロファイルで目に付いたのは「言語」と言う項目であった。つまりは、読んで字のごとくその候補者が何語を話せるのか、を示した項目であったのだが、これは日本ではまず見られないであろう項目だ。理由は単純であり、ほとんどの日本人が日本語しか話せないのを前提としているためであり、外国語話者は全て特技に含まれていくからである。
おおよそ、義務教育や自分の意思以外ではまず習う事のない外国語、つまりは英語以外の大半の言語の話者、かつマルチリンガルであればそれは特技と言っても差し支えないのであろう。しかし、英語が特技、と言うのは今なお違和感を感じざるを得ない。それは何故だろうか。
これらの理由としては、以前に挙げた事と重複するのであるが、まずは単純に英語が世界最大かつ唯一のリンガフランカ、つまりは国際語である、と言う事だ。国語が大きな影響力を持つロシアや中国大陸、そしてラテンアメリカなどは例外であろうが、やはりどこの国へ足を運ぼうとやはり当地で話す言葉と言えばまず英語だ。外国人観光客が日本における最大の不満点と言えば「英語が通じない」であるが、それに対してネットの掲示板などでは今なお「英語がどこでも通用すると思うな。日本に来るなら日本語を覚えろ。」なんて意見が常に噴出していくものであるが、前にも触れたように全くのナンセンスの極みだ。
ある程度知識があれば常識の範囲内であるのだが、世界の英語人口の4人に3人はノンネイティブである。つまり、日本に来る大抵の外国人もそうであり、普通であればどこの国だろうと短期滞在の旅行程度であればいちいち会話出来るほどの勉強などはする必要もない。まして、日本語と言う、日本と言う極東の島国内でしか通用しないローカル言語であればなおさらだ。もちろん、逆のパターンもしかりであり、例えば日本人がタイやインドネシアに行ったとしたら、英語を使うしかない。つまり、上記で触れた一部の国々や大陸を除けば、日本人だろうと何人だろうと、外国へ行けば真っ先に英語に頼らざるを得ないのである。
非英語圏でそれなのだから、香港やNYCと言った国際都市であればなおさらその傾向が強まる。一国二制度が半ば形骸化され、世界でも有数の国際金融センターとしての地位も今や危うくなった香港であるが、それでも一応まだ法律や貨幣は大陸とは別扱いであり、もちろん英語も公用語であり全ての公共機関には英語の表記が義務付けられている。
そして、様々な人種の人たちが闊歩している香港。母語も出身地も違う人たちが集う場所で、話す言葉と言えばひとつしかない。もちろん、英語だ。それは香港人同士であっても。例えば、日本であれば、人ととぶつかった時には「すいません」が基本であり、見知らぬ人に対してSorryなんて言う訳がない。しかし、香港では例え見かけが東洋人であったとしても、実際に話すまではどこから来た人間なのか分からない事がほとんどである。よって、少なくとも都市部であれば、香港人同士であってもSorryやExcuse meと言うのは珍しくはない。
もちろん、自分が話す言葉も英語しかないのだが、こんな環境に身を置いていると、例えば英語で話しかけて相手が非英語話者だったりすると、「なんだよ、英語も話せないのかよ」と言う感覚が嫌でも身についていってしまうものなのだ。これは日本に居るだけでは、絶対に理解出来ない感覚だろう。これがNYCのマンハッタンともなればさらにその傾向は強くなる。アメリカは国土がバカでかい事もあり、州を移動しただけでも外国に行ったような感覚になるのであるが、よってアメリカから一生出ないまま人生を終えるアメリカ人も珍しくはない。つまり、アメリカでの常識だけを身にまとったまま人生を終えていく事にもなるのであるが、そうなると「人間であれば全員英語を話せる」と言う認識のアメリカ人も決して少なくはないのだ。
そんな場所に身を投じたら実際どうなるのか。これは前にも触れたが、例えば日本であれば、明らかな西洋人に日本語で話しかけようとする日本人などはまず居ないであろう。そもそもその絶対数が少ないのだから、明らかな日本人に話しかける方がよっぽど手っ取り早い。しかし、人種のるつぼのマンハッタンでは肌の色、髪の色に関係なく、なんのためらいもなく英語で話しかけていくのだ。事実上の公用語、かつ世界最大の英語話者を抱えるアメリカなのだからそれも当然なのであるが、そんな場所に3ヵ月でもいれば、前述のように「全ての人間は英語を話せるもの」と言う感覚はもはや常識となっていくのだ。
つまり、日本では今なお英語が特殊技能として評価されるが、そんな日本人であってもアメリカの大地に一歩でも踏み入れてしまえば、そんなものは特技でもなんでもなくなってしまう、と言う訳だ。日本ではレアな英語話者でさえそんな扱いになってしまうのだから、話せないともなれば極端な話、「人間として」みなされるかどうかも怪しくなる。英語が上手くとも、周りもみんな出来るから優越感など一切抱える事もないし、そして話せないともなれば周りの誰も相手にしてくれない。ここがネイティブの国へ行っても英語を身につけられず、失敗に陥ってしまう罠でもあるのだ。
そして、英語のネイティブスピーカーは地球上に4億人程度とされているが、非ネイティブも含めると15億人だと言う。公用語の国人口であれば20億人を超え、もちろんこれは世界最大である。つまり、単純に言えば地球上の5人に1人は英語が通用するという事だ。もちろん、日本国内のみと前提とすればそんな数値はありえないのであるが、ひとまず世界規模で考えればその割合になる。5人に1人に出来る割合の能力が特技…?私が英語を特技とする事に対しての消えぬ違和感がまさにそれである。
まあ、散々触れてきたよう、少なくとも日本国内におければ特技である事は間違いでもないだろう。しかし、いくら一般的日本人より英語が出来るとしても、自身のような経験を積んでいくうちに、そんな感覚は消えていくのが普通だと思うのだ。もちろん、英語話者であっても海外渡航歴がない人も中には居るだろう。それなら分かるのだが、しかし渡航経験があったとしても特技と主張する人も間違いなくいる。
まあ、そんな人は余程英語力に自信があるのだろう、とは思うが、少なくとも自分の感覚で「得意」と言うのであれば、少なくとも国連英検の特A級やケンブリッジの英語資格、そしてCNNやBBCの生放送で全世界に取材出来るレベルでないと、とても英語が特技なんて言えないよなあ、と思ってしまうのである。少なくとも自分であれば、確かに一般的日本人よりかは英語が話せる事は間違いないのではあるものの、少なくともそれは周りと比較してこそが前提であり、とても得意などとは口が裂けても言えない、少なくとも自分では全くそうは思ってはいないのである。