ミック・フォーリー自伝 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

2000年に発売され、全米でベストセラーを記録したと言われる、マンカインド、カクタス・ジャック、本名ミック・フォーリーの初の自伝「Have a nice day!」。WWEのスーパースターの自伝と言うのは、ザ・ロックを始め、いくつか日本でも邦訳が出版されているが、何故かは知らないがこのフォーリーに関しては邦訳は存在しない。

だからか、何と10年以上前に、自力で翻訳してしかもそれをネット上にアップしていた強者が存在していたが、さすがに著作権上問題あるのは明らかなので、今ではそれも消滅。ただ、かろうじてアーカイブには存在しているので、URLさえ分かれば見る事は出来る。

私自身、WWE名義になってからのペーパーブックを、アマゾンのマーケットプレイスにて購入したが、正直フォーリー自身の特別なファンでもないし、とりあえず英語の勉強のために洋書をひとつ、ならプロレス関係なら分かりやすい、と言う程度の理由で買っただけだったと思う。しかも、おそらく買って6年以上は経っているとは思うのだけれども、当時は英文読解の能力は並の日本人に毛が生えた程度だったし、しかも全体で750ページぐらいあるので、ほとんど読まないまま現在まで放置していた。

CNNやBBCの英語とは異なり、この手の本はいかにもネイティブなアメリカ人的語法や表現が多く、単語のレベルは普通でも、教科書英語な日本人にはなかなか一筋縄ではいかないものなのではあるので、TOEICが800を超えた今でもそうスラスラとはいかないのだけれども、それでも当時よりかは楽に読めるようになったし、とりあえず彼が日本に来日していた当時のエピソードなどは読むことが出来た。

初来日は1991年3月、カクタス・ジャックのリングネームでやってきた毎年春恒例のチャンピオン・カーニバル。当時は久々にリーグ制が復活した年であり、初来日ながら彼もエントリーされていた。しかし、超無名で華もない彼は、当然の如く白星配給係(つまりは負け役)にとどまった。

実は、この時は全日本プロレスは深夜だったため見ておらず、リアルタイムでは知らない。にも拘わらず、これだけ覚えているのは、実は翌年知り合ったプロレスファンのクラスメイトが、何故か執拗なまでに彼の事を私に教えてくれたからだ。もちろん、ネタレスラーとして完全に馬鹿にしきっており、それから10年も経たないうちに業界の頂点となるWWE王座に輝くとは、お互い全く想像していなかった事だった。

そんな日本のファンにとっては、One of themに過ぎなかった彼であるものの、幼き頃からプロレスマニアで、もちろん日本のプロレスビデオも擦り切れるほど見て研究していた彼にとっては、初来日と言うのはとても印象に残るものだったようだ。ジャイアント馬場の生前、ほとんど触れられる事なくある種のタブーと化していた、馬場元子夫人の事も「影のボス」として容赦なく書かれていたし、どう見ても相手がわざと当たりに行って倒れているようにしか見えない、馬場の16文キックに対しても、何故客はあんなもので沸くのだろう、とはっきり書かれていた。

そして面白いのが、日本のファンからのサンキューを、わざわざ「Sank you」と書いていた事。発音をちゃんと学んでいる日本人以外、THは間違いなくサ行の発音に終始するので、それに対する皮肉かどうかは知らないが、やはりアメリカンに日本人のサンキューは、「沈んだお前」に聞こえてしまうのだろう。

その後、彼は我々の予想以上に早いスピードで出世し、当時アメリカのメジャーであったWCWや、ECWにも参戦、ハードコア・スタイルを得意とし、「アメリカ版大仁田厚」のニックネームを頂戴していた事にも触れていたが、本人はあまり好んでいなかったようだ。

時期的には94年前後だと思うが、当時は毎週雑誌を読んではいたものの、インディー事情には詳しくはなかったので、来日していたかどうかは覚えていない。しかし、95年、週刊プロレス・BBM社が主催した曰くつきの興業「夢の懸け橋」には参戦していたようであり、私自身は覚えていないが、その事実ならば、彼の試合を現場で見た最初で最後と言う事になる。インディーの試合を見たのも当然初めてだったけども、いくら流血しようと彼らは「プロレスラー」な訳であり、私はその凄さに興奮する事しきりだったものの、一緒に観戦していた友人は慣れていなかったようであり、ちょっと気持ち悪くなった、と語っていた。

そして8月、FMWに対抗してか、当時の対抗勢力であったIWA(簡単に言えばW★INGの後継みたいなもの)が、川崎球場でデスマッチトーナメントを開催し、それに参加した彼は見事に優勝。この大会は、確か当時UFCで本領発揮していたダン・スバーンや、全日本をドラッグが原因?で追放されたテリー・ゴーディなども参加し、まさに社運を賭けた一大イベントであった、と記憶している。もちろん、報道量も多く、今でもこれだけ覚えているのはそのためだ。

これらの描写も、短期の来日ながらもかなりのページを割いて描写されている。特に特筆するようなエピソードはなかったものの、日本のプロレスマスコミでは決して公にされる事のない、レスラーの移動やホテル、ギャラの格差などの生々しい話題がつづられているのは、プロレス文化の違いを感じる事が出来て興味深い。

それ以外で目を通したのは、例の「ヘル・イン・ア・セル」の部分ぐらいであり、前述のよう750ページと言う分厚さも手伝って、今なお完全読破には至っていない。なので、これら日本遠征の部分しかまともに語れはしないのだけれども、やはりこの本を語る上で絶対に欠かせないのはそこではなく、やはり冒頭の1994年3月17日、ドイツにおけるベイダー戦での耳そぎ事件、そしてそんな大けがをしてでも途中でやめる事の出来ないレスラーの意地と誇り、そして凄さを語った「あの部分」に尽きる。この本を語る上で、この部分は絶対に外せないし、また本の価値を飛躍的に高めた個所でもある、と言えるだろう。

試合自体はそんなに大きく報道されていた記憶はないので、耳そぎの事はおそらく知らなかったとは思うのだけれども、当然これはギミックでもフェイクでもなんでもなく、ロープに挟まってしまったフォーリーの耳が、運悪くそぎ落とされてマットに落ち、周囲が血の海になったのは間違いのない事実だ。

ここの描写は文章だけでも非常に生々しく、普通であればそこで試合が中止になるだろう。しかし、彼は続けた。それはプロレスが本当のスポーツではないから。そして作中の本人による解説こそ、おそらく私の知る限りプロレス史上最高の名言のひとつ、一度でもプロレスに夢中になった人たちはまず間違いなく彼の信念に心を震わせられるだろう。それが、これだ。(訳は私。コピペじゃない。)

"すでに酷い流血だ。その状態で、ベイダーの攻撃をブロックした所、私の耳がはっきりと顔の横に落ちていくのを目の当たりにした。「耳が取れる」…普通のスポーツであれば、そこで間違いなくストップがかかる原因となるだろう。つまりだ、もしマーク・マグワイアがその状態に陥ったのであれば、間違いなく彼は体のパーツの一部が欠落した状態で、ファースト・ベースまで走りすぎる事はありえない。

もしシャキール・オニールがレーンを走っている最中に、彼の耳が一部欠落したとしたら、血で真っ赤になったユニフォームと一緒に、ファウルラインを割る事はないはずだ。しかし、我々のスポーツ、インチキのスポーツ(Fake Sport)には、ひとつのルールがあるんだ。The Show must go on...ショーは続けなければならないんだよ。そして、その通り私は最後まで続けた。"


最初にこの大名言を拝見したのは、ネット始めた頃にたまたまだったと思うが、その時は「プロレスは(最初から勝敗が決まっている)インチキのスポーツだから、(その最初にあらかじめ決められた結末まで)何が起きても続けなければならないんだよ」的な文章だったのだけれども、これを読んだ瞬間から一気に涙が溢れてきた。

この当時は2002年の2月頃、つまりは業界を震撼させた「高橋本」の発売直後であり、全国のプロレスファンのショックがまだまだ癒えていなかった頃だ。2年前の橋本VS小川の高視聴率の貯金により、当時でもかろうじて新日本プロレスのドーム大会はゴールデンで放映されていた時代だったものの、やはり高橋本を読んでからはかつてのようにプロレスを素直に楽しめず、心は完全にPRIDEに奪われていた。

そんな時に読んだのが前述のその文章。おそらく、これほどまでにプロレスラーである事、そして自分たちがリング上でおこなっている事に誇りを持ち、そしてその誇りをこれ以上ないほど我々ファンに知らしめた文章はこれ以外にあるまい。そうだ、確かにプロレスはあらかじめ決められているのは疑いようのない事実だ。しかし、それが何だと言うのだ。彼ら、彼女らは、常に来てくれた観客を満足させるため、時には大けがも辞さず懸命のファイトを示してくれているのだ。もちろん、それでも皆が観客の支持を得られる訳じゃない。中には、志半ばで解雇された選手もたくさんいる、いや、むしろその方が多いかも知れない。

その中で生き残り、最終的に業界、そしてファンの信頼を勝ち得たもののみが、勝利を手にし、そしてベルトを手中にすることが出来るのだ。その最高峰がWWE王座であり、そしてレッスルマニアでの勝利だ。我々は、今でも決してエディ・ゲレロと、クリス・ベンワーのWM20での涙を忘れてはいない。プロレスラーとしては小さすぎる体格、そしてエディは負け役、クリスは単なるいち練習生として新日本プロレスで始まった二人のキャリア、遠い異国の地でレスリングの基礎を学んだ二人が、20年の時を経て、とうとう業界最高峰の舞台でベルトを戴冠と言う、業界最高の栄誉を手中に収めたのだ。これを単なる八百長、ショーと言う言葉で片付けられるだろうか?

おそらく、もしフォーリーの名言を目にしていなかったら、その後プロレスに戻る事なく、かつてプロレスにあれほど夢中になっていた自分ですら、今なお見下していたままかも知れない。もちろん、19から昨年まで、レッスルマニアの北米版DVD、ブルーレイを毎年買い集めてきた、と言う事もなく、その間我々を感動させてくれた名勝負を拝見する事もなかったかもしれない。また、WWEが会社を上げて取り組んでいる、Make a Wishの活動も目にすることはなかったかも知れない。それほど、この本におけるミックの名言は、自分の人生においても最大級の名言となって心に刻まれていったのです。