経緯。 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

3年前、香港であのような仕打ちを受けた自分は、失意のままに日本へ舞い戻る事へなったものの、やはりどうしても海外で働くという気持ちを捨てきれず、改めてその道を模索することになった。

当時の自分では香港以外考えられず、さらに日本人の欧米信仰への抵抗か、アジア以外の国々にはどうしても興味を持つことが出来なかったものの、さすがにこの当時はそんな余裕もなくなっていったので、ひとまずその拘りは捨てる事にしていった。

そこでアジアだけでなく、欧米でもインターンの可能性がある事を知ったのだけど、前述のよう、正直欧米に関心のある国々はほとんどなかった。その中で、自分にとって香港より魅力がある国と言えば世界一の超大国、アメリカしかない。幸いアメリカには香港とは比較にならないほど、多種多様のビザ、つまり合法的に長期滞在出来る手段があったので、この時点でアメリカ一本に絞って行くこととなった。

しかし、年齢的にも金銭的にも余裕がなかった自分は、学生の身分で行く訳にもいかなかったので、長期滞在するにはどうしても現地での就労が必須となる。そうなると必然的に選択肢となるのが最高18ヶ月まで就労出来る、J1ビザ必須の有給インターンしかなかった。

ただ、当時の自分はまだまだ知識不足だったため、外国人が他国でお金を得る、と言う大変さの意味を理解しておらず、その道は自分が想像していた以上に敷居の高いものだった。もちろん、そこに至るまでにもそれ相当のお金がかかる。そこで重要なのはエージェント選びだ。前回痛い目にあった以上、絶対に失敗は許されなかったため、慎重に吟味し、最終的に選んだのが当時渋谷にオフィスを構えているDと言う会社だった。

早速連絡を取り、自ら事務所へ出向き直の説明。応対も説明も丁寧で非常に良い感触を得た自分は、いよいよアメリカ就労へ向け本格的に動き出す事になった。

まずは英語のレベルチェック。2012年当時の自分はベーシックな英会話そのものは可能ではあったものの、肝心のTOEICのスコアが低く、680点前後をうろうろする程度のものだった。

多くの募集要項で、TOEIC600点以上、と言う条件を多く目にすると思うが、実際600点レベルではとても仕事に使えるレベルではならない。よって多少の不安はあったものの、先方から提示されたUKの英語テストではギリギリ合格のライン、英会話力のチェックでも一応合格点を得る事ができ、英語・日本語半々ぐらいの企業であれば何とかなる、とのお墨付きをもらう事が出来た。

しかし、J1ビザでの就労となると、過去の職歴に即した企業しか事実上選択肢が限られてしまう事となってしまう。そうなると、必然的にアメリカでも日本食レストランやサービス業中心となってしまうが、当時の自分はそれはしょうがない、と言った感じでそれほど重くは捉えてはいなかった。

また、時期的にはちょうど基地へ掛け持ちを始めた頃と重なる。無論、接客英語などは英語力には何の足しにもならないものの、当時はクルー全体の英語力レベルは今よりも高く、真剣に向き合っている者たちも少なくはなかったので、自分としては良い転機だったと思っている。

しばらく動きはなく、10月を前にする頃になって接客業のみ6つほどの候補が届いた。このうちひとつから選択すれば良いものの、一度合格したら変更は出来ないため、慎重に吟味をしなければならない。そこで最終的に決断したのが、当時ニューヨークのミッドタウンに店舗を構えていたうどん屋だった。

誰もが羨む世界一の都市ニューヨークのマンハッタンのど真ん中、しかも給与も月2000ドルと言う、物価高のNYであっても食べていくには十分なお金を得る事も出来る。もちろん飲食店での経験も大いに活かす事も可能だ。決断を要するまでにそう時間はかからなかった。そしていよいよ電話での面接。「これがだめでもまだ次がある」そんな気持ちでプレッシャーをかけずに挑んだ自分は、面接中もすこぶる話が弾み、「これはいけるかも」の手ごたえ。そして翌日のメールにおいて合格の通知が。つまり、この時点でほぼNY行きのチケットを入手した訳だ。自分でも信じられないぐらいうまく話が運んでいったな、と言う感じだった。

しかし、すぐと言う訳には行かなかった。ドル建ての残高証明や、高校の卒業証明など、書類の準備だけでも一月以上は要した。もちろん、ここまでにウン十万のお金を支払っている事もあり、生活費を稼ぐためにも数ヶ月は欲しかった事もある。よって、一応の渡航時期は2013年の3月頃、と言う予定でいた。

そしてその2013年の3月、J1ビザの面接対策と言う事で、週1回スカイプにおける模擬面接の練習が始まった。NY在住の日本人の方による英語での練習だったんだけども、正直言うとこれは自分は大嫌いだった。この辺りは詳しい描写は控えるが、ある部分に色を付ける事となってしまい、元来嘘をつけない正直者の私は回を重ねる事に嫌気が差していってしまった。

また、それに比例してうどん屋で働く事の不安も生まれていった。何故、ここを選んだか。英語比率がそれなりに高かった、と言う事もあったものの、一番はやはり給与だ。つまり、自分の理想よりも現実で生き抜く道を選んだと言う訳だ。もちろん、世の中はお金がないと生きていけないので、それは決して間違った選択ではないと思う。しかし、どうして自分が英語を学び始めていったのか。それは決してうどん屋で働きたかった、訳ではなかった。ブルース・リーに憧れ、駅で困った外国人に何も言えなかった自分を恥じ、いつかは英語で人々を助けたい、本来の目的はそうではなかったのか。その葛藤で苦しんでいくうちに理想が現実を上回り、模擬面接がうまくいかなかった事もあって、しばらくの間サスペンドと言う形になってしまった。

また、それとは別に、当時の私はある人物との対立をきっかけとして、元の店舗へのイン回数を増やしていった。FCとなり、店長も変わり、大分雰囲気が変わってはいたのだけれども、当時の店長はとても人間味に溢れた人物であり、スキルも大変高く、この人に付いて行けば間違いない、そう思わせてくれるような人だった。残念ながらすぐに他店舗へ異動してしまったのだけれども、彼が呼んだある女性マネージャーが最初はクールな感じだったものの、たまに見せる女の子らしい可愛さにぐっときてしまい、つまりは日本を離れたくない明確な理由が生まれてしまったのだ。

その後しばらくして、再度エージェントから連絡が入り、「J1は難しいので学生ビザで云々…」と言う話を頂いた。その時はそういう手もあるんだ、と言う感じで聞いていたものの、その後大分経って調べてみると、1年間は就労禁止、見つかれば即強制送還、と言う事だった。もしその事を知らずに…だったら今考えてみても恐ろしい。確かにNYには日本人コミュニティと言うのがあまり感じられないので、ばれさえしなければ大丈夫、と言う事だったのかも知れないが、やはりグレーゾーンだけは避けたいものだ。

同時期に、香港ではブルース・リー没後40周年のイベントがあり、私も参加。しかも同日夜の追悼テレビにまで出演と、まさに一生ものの思い出を作る事となった。しかし、私の場合は香港には最低でも1週間以上はゲストハウスに滞在するので、それと飛行機代だけでも7万はくだらない。食費やお土産代も入れると当然10万は軽く超える。米国滞在のためにはどうしてもとっておきたいお金のはずなのに、いくら大イベントのためとは言え簡単に消費してしまう時点で、すでにアメリカ行きの気持ちは薄くなっていたのだろう。

その後、秋口を迎えてもエージェントからの連絡もなく、翌年まで何の動きもなくなり、ひとまずアメリカ行きは「なかった事」になりつつあった。