任意 1751-1816

ジュリアは、北フランスに生まれる。幼いときから信仰が厚く、「聖女」と呼ばれるほどだった。
若いときに全身が麻痺し歩けなくなったが、深い信仰のうちに村の人々に霊的指導を与えていた。
23年後に奇跡的に歩けるようになったジュリアは、貧しい子女の教育を目的とした修道会を
創立した。階級制がない修道会は、当時としては画期的なことだったが、
周囲の理解を得られず、好意を示すベルギーのナミュール市に本部を移し、
名称も「ナミュール・ノートルダム修道女会」とした。 (C) ラウダテ

たったそれだけだったら、私がしゃしゃり出ることもなさそう。歴史は世界で始めて革命の起きた
パリでの出来事。戦さの中身は、重税を課していた王家・貴族階級+カトリック司教団
対する、家内工業的資本家+ジャコバン党。こう言う図式。題意ではないが、
ジャコバン党は現在の旧ソ連・中国・朝鮮 など、過激な似非共産主義国家の、
理論的な要となった集団。暴力は止めようと訴えた教会もあったと言われているが。
家内工業的資本家の諸君は、例えばクラシック作曲家等を保護し、
音楽著作権の原理を考え出したり、優れた仕事もした。しかし、
どちらの側にも立たず、福音に徹することは、命を失うことと同義。ジャコバン党の
側についた教会は、ジュリアの仕事を反革命とみなし、火あぶりにしようとした。

藁を積んだ馬車に隠れて逃げた、と言う話も残っている。三年間も隠遁しなければ
ならなかったのである。聖心会と言う組織がある。創立者はマグダレナ・ソフィア・
バラ、指導司祭はバラン神父。彼がジュリアの素質を見抜き、貧しい師弟の教育を
成す修道会を作ることを提言した。ジャコバン党以外の、すべて。すなわち、階級のない
教育施設である。そこへある司祭が指導を買って出た。たぶんに高名心か。
パリなどの大司教区において、総長(創立者)を設け、バチカンから指導司祭を
呼ぶ。それよりも、自ら、小さな1司教区内において認可される修道会で
あれば、権威も利潤も取れるではないか。貧しい師弟が対象だと言っても、
他司教区からの越境入学は有り得ないわな。ジュリアの思想と対立。

ジュリアは、修道会を建立することを優先し、時を待った。
ついに、その時が来た。ベルギー国、ナミュール市にある司教区が、彼女たちを
招いた。名を、「ナミュール・ノートルダム・修道女会」と言う。
戦さが終わり、追放した司教区は戻ってくることを希望したが、すでに
会は地球規模となって行ったのである。
聖ヨハネ・バプティスタ・ド・ラ・サール
記念   1652-1719

問題のラ・サールである。日本では、鹿児島が先に学校を建て、次いで函館に建立された。
何が問題か。日本のカトリック・プロテント校は、創立者の意に反して、進学専門校
となっていて、我々・しもじもの信徒と、聖書の解釈が違うのではないかと思うほど、
雲の上。Frere_des_Ecoles_Chretienns。 世界で姉妹校は1300校余り。
ラ・サール石井氏だとか、伊藤裕一郎氏 みたいな、けったいな人たちがOBに名を
連ねている。むさ苦しい男子校だ。

Jean_Baptiste_de_La_Salle。  サン・スルピス神学院→ソルボンヌ大学を経て、
司祭に叙階される。翌年、貧しい師弟の為に学校を創設した人々に出会い、共鳴。
そこの教師7名と友達となった。当時、このようなミッションスクールはほとんど寄付で
賄っていたので、ラ・サール神父は、生徒の中でより貧しい子を自分の家に住まわせ、
彼らの食事も自費で保護していた。元々・有名校ではなかったので、品位の低い教師も
いる。神父は彼らも訓戒・教育をせざるを得ない。
そのうち彼の二人の兄弟は、反抗的な二人の教師に耐えられず家出をする。
そして、反抗的な教師も飛び出してしまった。

残った教師と生徒は、神父を指導者として認め、丁度・飢饉も発生していたので、
ラ・サールは自分の全財産を教育につぎ込んでしまったのである。

五年後、神父と12人になった教師は、集団教育を行う為に、修道請願を立てた。
貧しい師弟には、その方法が良いと考えたからだろう。キリスト教学校修士会が
それである。普通は指導者(創立者)と複数の神父が経営に当たるのだけど、
ここは、創立者と神父が、彼一人。当時は、集団教育と言う概念はなく、
宗教内外から迫害され、精神的に堪えたと言う。

彼は元々・貴族である。学校での貧しい生活とは言え、食事環境は良い。
彼は心から、貧困な食事を選び、血を吐いたりもした。心の貧しさを体で
実践した。それでも、時には、人間の思いにかられ、教育者として相応しくないのでは
無いかと、辞職も考えたと言う。会の兄弟たちは、それは、思い留めさせた。

ラ・サール神父は教会神学とその意義に忠実であり、子供たちに、たびたび、
聖体拝領を施した。

そして、30年の時が流れた。69歳。使命を真っ当した。「キリスト教的な学校の
兄弟たち」Frere_des_Ecoles_Chretienns  その精神は今もなお、
脈々と、受け継がれている。

おてやわらかに、願います。昨日、パケット(高速道路)通信線の仕組みを
知らない人が、おかしな質問をしてきたので、戸惑いました。

★ 今日のBGMは雨だれ?です。
http://twitter.jp/stephano_2010

も よろぴく
地獄みたいな悪ゆめから覚めた。事務所の部屋に移る。
いつもと同じ、ペンキが凛々しい、パソコン2台。
オルガン型のシーケンサーが、畳の上を張っている、
何も無駄のない、原風景だ。

★ けれども、打ち込み音楽には限界を感じているし、ホームページの
作成業では、CHFさんから、事実上の首。所属教会からは、相当の距離を
置かれている。AJU社とは、口を利かれてはおらん。引きこもりとアルコールにて、
心的バランスを取っている。 大汗と体温低下。精液の臭い。
部屋全体はマリア香とペンキのほのかな匂い。朝風呂→ロザリオ と
聖務日課は始まるけれど、しっくりこない。
昨晩は、いつも疑問になっていた、と・ある男のブログで愚痴る。俺が、
俺のオアシスで語った言葉を、そっくり返された。自信も何もない。