聖ヨハネ・バプティスタ・ド・ラ・サール
記念   1652-1719

問題のラ・サールである。日本では、鹿児島が先に学校を建て、次いで函館に建立された。
何が問題か。日本のカトリック・プロテント校は、創立者の意に反して、進学専門校
となっていて、我々・しもじもの信徒と、聖書の解釈が違うのではないかと思うほど、
雲の上。Frere_des_Ecoles_Chretienns。 世界で姉妹校は1300校余り。
ラ・サール石井氏だとか、伊藤裕一郎氏 みたいな、けったいな人たちがOBに名を
連ねている。むさ苦しい男子校だ。

Jean_Baptiste_de_La_Salle。  サン・スルピス神学院→ソルボンヌ大学を経て、
司祭に叙階される。翌年、貧しい師弟の為に学校を創設した人々に出会い、共鳴。
そこの教師7名と友達となった。当時、このようなミッションスクールはほとんど寄付で
賄っていたので、ラ・サール神父は、生徒の中でより貧しい子を自分の家に住まわせ、
彼らの食事も自費で保護していた。元々・有名校ではなかったので、品位の低い教師も
いる。神父は彼らも訓戒・教育をせざるを得ない。
そのうち彼の二人の兄弟は、反抗的な二人の教師に耐えられず家出をする。
そして、反抗的な教師も飛び出してしまった。

残った教師と生徒は、神父を指導者として認め、丁度・飢饉も発生していたので、
ラ・サールは自分の全財産を教育につぎ込んでしまったのである。

五年後、神父と12人になった教師は、集団教育を行う為に、修道請願を立てた。
貧しい師弟には、その方法が良いと考えたからだろう。キリスト教学校修士会が
それである。普通は指導者(創立者)と複数の神父が経営に当たるのだけど、
ここは、創立者と神父が、彼一人。当時は、集団教育と言う概念はなく、
宗教内外から迫害され、精神的に堪えたと言う。

彼は元々・貴族である。学校での貧しい生活とは言え、食事環境は良い。
彼は心から、貧困な食事を選び、血を吐いたりもした。心の貧しさを体で
実践した。それでも、時には、人間の思いにかられ、教育者として相応しくないのでは
無いかと、辞職も考えたと言う。会の兄弟たちは、それは、思い留めさせた。

ラ・サール神父は教会神学とその意義に忠実であり、子供たちに、たびたび、
聖体拝領を施した。

そして、30年の時が流れた。69歳。使命を真っ当した。「キリスト教的な学校の
兄弟たち」Frere_des_Ecoles_Chretienns  その精神は今もなお、
脈々と、受け継がれている。