御聖体の意義と、分裂状態の定義
なんと、難しい主題を持ち込んでいるなとは思うけど、
リコ教の思想だけがカトリックであると、やられると、
聖体櫃訪問と黙想なんて、バラバラになってしまうので、ね。
(C)第二バチカン
神のこの単一唯一の教会の中に、すでに初期のころから、
ある分裂が起こり、使徒はそれを断罪すへべきものとして
激しく非難している。後代になって、もっと十台な不一致が
起こり、かなり大きな諸集団がカトリック教会の完全な交わり
から分かれたが、ときには、双方の人々に過失がなかった
わけではない。-------われわれは、これらの分かれた諸教会と
諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義に
おける意義と重要性を欠くものではない。なぜならばキリストの
霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを
拒否しないからである。
★ この論説は、国教会・ギリシャ・プロテスタント などの 兄弟姉妹に
宛てた、大切な友達文。世界には、数1000の教団があり、
それぞれに創立者を持ち、イエス・キリストを頭とする、クリスチャン。
カトリックもその点で、それらの教団と位置する点は同じです。
さまざまな教団を認めることは、双方の祈りを励ますことにすら
なるのです。
で、、カトリックの群れに参加している信徒が、プロテスタント
各派だとか、聖公会の思想に染まって良いかは、疑問視しなければ
なりません。それは例え、それぞれの教団が持つ、神学を
学んでいけないとは申していません。堂々と比較神学すれば良いです。
リコ教だとか、秋田教 などが生まれつつあるのだけれど、
既存のプロテスタント各派とは違い、バチカンは警戒してます。
正式な通達としては、個人・あるいは単位・小教区 において
素朴な信心をして良い。むしろ奨励すらする、よ。
けれども、それがバチカンが公認した事には
ならないと。故に、その外部には、広告してはだめ、あるよ。
なぜ、そこまで、言わなければならないか。それは取りも直さず、
カトリックも、プロテスタント仲間と同じ、1教団だから。
分裂している状態を互いに祈りで克服しようとする時、
こちらの教団内部で、新たな分裂になるのは避けなければ。
1コリント12章12-26節。 27-31節は カトリック教団では
位階です。
御聖体は、イエスの体・イエスの血 です。聖変化するまでは、
種なし小麦の、餅に過ぎない。イエス様は、聖変化する前の
食事として、民衆に配ったことが二度ありました。
一度目は、五つのパンと二匹の魚、です。例・マタイ14章
15-21節。 当時のユダヤでは女子供は人数に入れてない。
男子5000人。五つのパンと二匹の魚を持っていた少年。
大麦パン。二匹の魚。少年に取って、貧しい家族の数日分の
食料か。お金持ちは小麦を買うことは出来るけれども、
ビール用の大麦なんて、不味くて、口には入りそうも無い。
それを惜しげもなく、イエス様に差し上げた。パンは増加した。
ヨハネはイエス様が配ったと書いたが、一人で配るのは
無理と言うもの。たぶん、現代ミサと同じく、複数の祭礼者が
配ったのではないかな。弟子教育の一環と考えるのが、
この場にふさわしいと思う。男子5000人、つまり、1万以上の
人たちを満腹にさせた。こう言うことを意味するのです。
これは別の意味を持ちます。イエスの説教は、この時は
ユダヤ人を対象としていたこと。
二度目は。マルコ8章1-10節。一度目の「籠」とは、ユダヤ人が
パンや食料を旅するときに持つ、木の枝で編んだ「籠」。二度目の
奇跡の時の「籠」とは、異邦人のパンや食べ物は霊的に汚れて
いたと考えられるので、自分の家で調理した食べ物を運ぶ、
ユダヤ人の「籠」より、大きい概念を指すようです。
つまり、福音記者が書きたい、ことは、パンの増加と言う秘蹟は
ユダヤ人・異邦人 の 区別(差別)はなく、みんな 貰えるのだよ。
こう言うことを示唆していると思います。異邦人に表された言葉の
中で「七籠」と言う表現があり、これは旧約聖書。神様が
六日間で世界を作り、七日は安息された。こう言う意味です。
異邦人にも、それを強調している点が、大切だと思います。
ここの文脈から、マルコ14章12-21節。そして、有名な聖句。
22-25節。感謝を捧げて祝福し、割って弟子に与えて仰せに
なりました。「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたの
ために渡される、わたしのからだ」。----「皆、これを受けて飲みなさい。
これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、
罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血」。すなわち、神父さんが、
ミサの後半で語られる、第一奉献文の、骨子に繋がっていくのです。
ここで、1コリント12章27-33節に戻ります。10億人、カトリック信者。
単一の教団としては、宗教人口・世界一です。そんなことを誇っても
意味はない。神学的思想と言う点で、教皇さんも、私も、あなたも、
今まで書いてきた、金太郎飴は守れよ。同じ福音宣教の仕事を
帯びているのですから。ここでの分裂は困る。私はこう、申している。
この点が理解されないと、次に進まない。
当該論文を理解されたと信じて、カトリック者に向けて、次の話を
入れていく。「あなたがたはキリストの体であり、
またた、一人一人はその部分です。第一に使徒、第二に預言者、
第三に教師、次に奇跡を行う者---------」 カトリック教団では
この箇所こそが、位階です、と書きました。
教皇←→司教←→司祭←→信徒 です。
司教区、あるいは、小教区段階において、上位位階者から
位階を受けた聖職者に従うことが絶対に必要です。
正規位階者、以外の神学は、受けてはなりません。
プロテスタント神学も含めて、自由に学んで良いと書いたのに、
なぜ、そんな、矛盾することを? と 諸君は思うかも知れません。
逆説なんだけど、信徒伝道者として自由に、他・教団の
神学も吸収できる。この権利を使う為には、カトリック神学の
確固たる、信頼があったればこそ、ではないかな???
胸を張って、私はカトリック信徒です。そこのところを忘れたり、
改ざんしたりすれば、五つのパンと二匹の魚 の意味すら
分裂してしまうのです。