元本があるとは言え、コピーしている分けではないので、
なかなか、しんどい作業ではあるけれど。さて、二月15日は
聖クロード・コロンビエール司祭の話。 1641-1681

今年五月三十一日に、ヨハネ・パウロ二世教皇は、イエズス会司祭
クロード・ラ・コロンビエールを聖人の列に加えてくださいます。
一九二九年にピオ十一世教皇によって福音の列に加えられた
彼が列聖されることを、イエズス会が特に熱烈に望んでいたのです。
というのは、イエズス会の宝であるイエズスのも心の信心と
コロンビエールとの間には密接な関係が存在するからです。
コロンビエールは一六四一年にフランスのリヨン村付近に生まれ、
イエズス会の学校で学び、十七歳の若さで同会に入会しました

(C)

http://www.jesuits-japan.org/static.php?page=3dCollombiere



フランス南東部、弁護士の家に誕生。三男である。
総勢何人の子がいたかは定かではないが、一人を
除いて、聖職者を目指したそうだ。日本でも、福江なんかで
見かける光景。信心の篤い家庭ではよくあること。

彼は、イエズス会の学校に入学したが、教師の態度や
行いには認めていた物の、自身が修道士になることには
反発していた。周りの兄弟たちの身振り手振りを見続けて
いれば、窮屈だと感じるのも、無理はない。聖職者諸君らは
それ自体自由と感じているのだが。「神に仕えることは、いつ
でも大きな犠牲を伴う」ことを知るには、時間が必要だった。
少なくとも、16年間は哲学・神学 などを履修。イエズス会
で言う第三修練まで進んだ。言うならば、最終請願を目指す
時期。心的にイエスと結婚する決意を言う。

最終請願の許可も出ないうちに、彼はバレー・ル・モ二アル町の
イエズス会、ここの修道院長として任命。おもに教育・修道士
として働くためである。ここで、ささやかな女子との友情が
芽生える。聖マルガリータ・マリア・アラコックが、兄妹修道会
である訪問会修道院に住んでいて、指導者を求めていた
からである。友情は一年ほど続いた。二人に取って、信心的
深さを持った、祝福の経験と言えた。

さて、任務が来た。反カトリック国であったイギリス、つまり国教会。
ここの王子の后がカトリックなので、その世話と信仰教育をする為に
司祭として派遣されたのである。豪華な城の中で、火もない貧しい
生活をすることは、体に答える。石の城。自分のストーブに一度も
薪を入れないと言う徹底した物。雪は降る。ロンドンは寒い。
二年間は、后の指導をしつつ、迫害されていた信徒を励まし、
信心から離れていた人たちを群れに戻したりもした。

そこに、冤罪が発生。誰かが政府に、カトリック信徒が王を殺そうと
企てていると進言。11人の司祭が絞首刑。2ー3000人の信徒は
投獄された。クロードも陰謀の加担者として逮捕される。しかし、
具体的な証拠は出なかった。カトリックに改宗させようと導いた罪を
でっちあげて、一ヶ月、牢屋に監禁したのでありました。
食べ物はほとんど与えなかったので、血を吐く始末である。
外国・国籍の者を、かつ・后の教育司祭でもある。牢死を恐れた
政府は、外国追放とした。

フランスに帰国。病は癒されず。心配したマルガリータは「神父さまに
とって一番有益なことは、神のみ旨に従うこと」と、暖かい手紙を
送ったのでありました。 張り扇 パンパン。

使徒的な情熱は燃え盛っていたけれど、健康と命を、
神に捧げる日がやって来てしまった。享年41歳。
彼はそんなに目立つ司祭ではなかったけれども、数・多くの
書簡を残している。

冒頭・ イエズス会・日本管区の文章で、今年とは???
いつ、日本管区が当該書簡を出したのかは定かではない。
しかし、聖人として列せられたのは、比較的新しい。

過去の事件を  if then elese してはならいが、
もし、1600年代、国教会とカトリックが友情関係にあったならば、
彼は殺されずにすんだのかも知れない。