12月21日 聖ペテロ・カニジオ教会博士
任意 1511-1597
ドイツ国の話題。ここは、カトリックになったのは歴史が
新しく、8世紀に聖ポニファチオによって建てられた。
東西ローマ帝国が互いに反目しあう頃です。 で、
面白いのは、16世紀。
ルター神父が反乱を起こした。
人呼んで、ルター革命。 プロテスタントの誕生である。
ドイツはここで、新教国として、生まれ変わってしまう。
経済戦争たる市民革命が
根っ子にあるので、カトリックでは駄目だ、ルター神父様。
こうなると、原理主義となる。方や、免罪符汚職。
★ 教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための
全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを
布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が
販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が
宗教改革を引き起こすことになる。
★ アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を
得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、
フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。
それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での
贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。
出典 ウィキペディア
当然に、ドイツの司教・神父らは、それらをピンはねするだろうし、
故に司祭も修道長もいない 教会が多数を占める。信仰者らは
彼らを侮蔑するのは、当然のことと、言える。
まともな組織はおかしくなると、自浄作用が働く。カトリック側から
刷新事業を働いたのが、この人ペテロ・カニジオ。
オランダで生まれ、母親とは幼い頃死別。市長職の父親は再婚。
新しい母親は信仰熱心。 彼は、学校の不信仰な雰囲気にも
馴染めず、不良となり、反省する。この繰り返しをしていた。
ケルン大学の時、聖霊が働いた。福者ペトロ・ファーブルの演説を聴き、
イエズス会に入ることを決心する。この福者はロヨラの弟子である。
まず、イタリアに留学、数年でドイツに戻る。 大学の先生として
神学を教えることとなった。
神学本・教会史論 多数発行。また、一般民衆の為に、
カトリック要理も発行。日本語にも訳出されている。
やがて、皇帝やドイツ諸侯の、宗教顧問も引き受けるようになる。
それだけではなく、ペスト患者の救済も引き受けた。司教候補として
名前が挙がった。しかし、彼は幾度もそれを拒み、イエズス会管区長として
カトリック学校を増やしていく仕事に就いた。現在、ドイツ連邦が
カトリック国として君臨しているのは、この男の、謙遜な仕事の賜物と
言って良い。 イタリア・スペイン その峠の城の息子、ロヨラ。
その弟子たちが、現在、ドイツに多いのは、理由が分らなかったが、納得。
また、トレント公会議で発言もしている。当時の新教は、宗教原理
主義と言ってよく、心が・けばだっているプロテスタントの諸君へも、
働きかけなければならなかった。信仰を間違う人は、悪い心でそれを
するのではなく、信仰に対する疑問と無理解から。
日本、現代、頑なな態度を取るカトリック信徒も、多いが、
そんなのは今に始まったものではない。
彼は自分の態度を示し、不親切や無礼で答えてはならないと諭した。
任意 1511-1597
ドイツ国の話題。ここは、カトリックになったのは歴史が
新しく、8世紀に聖ポニファチオによって建てられた。
東西ローマ帝国が互いに反目しあう頃です。 で、
面白いのは、16世紀。
ルター神父が反乱を起こした。
人呼んで、ルター革命。 プロテスタントの誕生である。
ドイツはここで、新教国として、生まれ変わってしまう。
経済戦争たる市民革命が
根っ子にあるので、カトリックでは駄目だ、ルター神父様。
こうなると、原理主義となる。方や、免罪符汚職。
★ 教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための
全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを
布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が
販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が
宗教改革を引き起こすことになる。
★ アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を
得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、
フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。
それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での
贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。
出典 ウィキペディア
当然に、ドイツの司教・神父らは、それらをピンはねするだろうし、
故に司祭も修道長もいない 教会が多数を占める。信仰者らは
彼らを侮蔑するのは、当然のことと、言える。
まともな組織はおかしくなると、自浄作用が働く。カトリック側から
刷新事業を働いたのが、この人ペテロ・カニジオ。
オランダで生まれ、母親とは幼い頃死別。市長職の父親は再婚。
新しい母親は信仰熱心。 彼は、学校の不信仰な雰囲気にも
馴染めず、不良となり、反省する。この繰り返しをしていた。
ケルン大学の時、聖霊が働いた。福者ペトロ・ファーブルの演説を聴き、
イエズス会に入ることを決心する。この福者はロヨラの弟子である。
まず、イタリアに留学、数年でドイツに戻る。 大学の先生として
神学を教えることとなった。
神学本・教会史論 多数発行。また、一般民衆の為に、
カトリック要理も発行。日本語にも訳出されている。
やがて、皇帝やドイツ諸侯の、宗教顧問も引き受けるようになる。
それだけではなく、ペスト患者の救済も引き受けた。司教候補として
名前が挙がった。しかし、彼は幾度もそれを拒み、イエズス会管区長として
カトリック学校を増やしていく仕事に就いた。現在、ドイツ連邦が
カトリック国として君臨しているのは、この男の、謙遜な仕事の賜物と
言って良い。 イタリア・スペイン その峠の城の息子、ロヨラ。
その弟子たちが、現在、ドイツに多いのは、理由が分らなかったが、納得。
また、トレント公会議で発言もしている。当時の新教は、宗教原理
主義と言ってよく、心が・けばだっているプロテスタントの諸君へも、
働きかけなければならなかった。信仰を間違う人は、悪い心でそれを
するのではなく、信仰に対する疑問と無理解から。
日本、現代、頑なな態度を取るカトリック信徒も、多いが、
そんなのは今に始まったものではない。
彼は自分の態度を示し、不親切や無礼で答えてはならないと諭した。