のんきな親父殿、ボランティアとかなんとか言って今日も元職場に出かけていたらしい。現場作業のおばちゃんたちにちょっとはあてにされたりするのがうれしかのよね
わかりやすい親父殿は明日、精密検査の結果説明があるのだけど。
うちでクサクサしてるのもいやだったみたいで。
検査結果、なんとなく何にもないような気がするが、何かあってもおかしくはない。知らぬが仏で、知らない方が今日みたいに元気なんじゃないのかしら。知ってしまうと、色々不安を募らせて、免疫力も落ちて、老け込んでしまうのではないかしら。
告知というのは自らの人生を主体的に生きるためにも必要なのだろうけれど、すでに晩年の、メンタル弱い親父殿みたいなタイプに、必ずしも必要なのか、なと、思う
むかし、看護の勉強をしていた頃、概論の授業でキューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本の抄読があり、告知とかクオリティオブライフとかインフォームドコンセントとかそういうものについて、どう考えるかディベート形式の講義を受けた、
告知は全ての者に対して等しく行う必要はないとおもたんだけど、先生にあとでそうじゃないのよと指導を受けたんだった。
今から30年近く前。
だけど、未だに本当にそうなのかなあと思うのだ。
もがき、苦しみ、あきらめ、受け入れる過程をクリアして死ねたらいいけど、苦しみの最中のまま死んだら、それは辛かろうなと思うと、なんだかすっきりしない。
がんは、死なない、すぐには死なない病になってきてるからこそそうなってきたんじゃないのかな。
不治の病だった頃とは違うんだと思う。
異常があってもなくても、乗り切れる精神力があるかどうか、あの人にも。
自分にも。