我々は皆、自由に考え、自分の考えを持ていると思っている。誰かに強制されたことはなく、自分で考えていると思っている。


本当にそうだろうか? 天動説が科学的に証明され、教育でそれが普及されるまで、人々は素朴に地動説を信じていた。旧ソ連東欧で生まれた子供達は共産主義だけが正義であり理想であると教育を受けたので、共産主義を信じていたが、それは「自由に考えた」のではなく、それしか教わらなかったことの結果でしかない。


現代はどうか? 例えば、あなたは今、日本の消費税を上げるべきかどうか、どのように考えているだろうか。自分の考えをどのように形成したのか、その過程を振り返ってみよう。


まず、新聞、テレビ、雑誌、書籍から情報を得ているだろう。あなたの周りの人もそうである。そして、それがすべてであり、自分の考えは新聞の見解のどれかと同じである。


しかし、マスコミに登場する人が優れた意見を持っているかどうかは、まったく証明されていない。そして、マスコミは「キャンペーン」、「報道しない自由」を駆使し、世論誘導を行っている。


最近はネットで情報を入手することも出来る。マスメディアに登場する論調以外でも、ネットなら世間に披瀝できるチャンスがある。中には、マスメディアとは別の見解を持ち、その論拠やデータを示している人もおり、それに影響を受ける人も多い。しかし、その場合も、あなた自身の考えは、そのネット上の誰かさんの考えでしかない。


あなたは、政治とか、経済政策とか、歴史について考えたことがあるだろうか。その場合、時代が変われば、過去を批判することは容易であると言うことに気が付くだろう。つまり、新しい時代の方が新しい発見、情報があり、人間は進歩し考え方が進んでいる思い込んでいると言うことだ。一言で言うと、過去の人はその時代の制約の中で生きていたと言うことである。


時代の制約という見方の説明には、芸術について、ルネッサンス、プロレタリアート芸術、アプレゲールなどの様式が、時代の枠の中で発生していることを振り返れば、わかり易いだろう。


それでは、今から1000年後の未来から今日を振り返っている自分を想像してみよう。1000年後は国境も、国際関係も、経済状態も、教育も、幸福の定義もかなり変わっているだろう。1000年後の人々は、21世紀の人々は21世紀と言う時代の枠の中で、政治、経済、文化活動をしていたのだね、と言うことだろう。


我々は時代の目に見えない壁の中で生きている、時代の囚人である。