一番左の廣田家のツルケサさん(この名前だったと思う、

この方の下の名前だけがうろ覚えではある)は、

この方は生前に実父が話していた事は、

実は血縁関係はないのですが、

なぜか私に似ているらしいとうちの父が生前に良く言っていました。

なぜなら、うちが藤澤家だからです。

 

写真の場所は、どうも祖父が三菱銀行、兵庫の西須摩だったか小樽の支店にいた時といってました。

右から、一番右が廣田秀度(昌度)で、2番目がうちの父親の廣田秀實です。

その左が、廣田(竹下)サキうちの祖母です。

最後にお尋ねですが、この写真等、うちの父はうちの家に来る人全員にうちの来歴を教えていました。

うちのこの叔父の事等も父母の担当されている方等も含め、来歴をほとんど全員に伝えていました。

というぐらい話好きだったのです。そして、母に関連する様々な今思えば被害があり、担当には伝えていました。

そういえば、うちの両親等は認知の症状はそこまでひどくなく、老人は昔のことは結構覚えていました。

今現在も変わりません。

 

左側の赤ちゃんは,

うちの父の実の弟です。

昭和の時代に、私達が丁度中学ぐらいの時にまだ当時現役で、もう36、37,38年ほど前かな?

佐賀県立北高校の教師を長年勤めてた、江口(廣田)利武伯父さんです。

諸先生方には慕われていたとお聞きしております。(私の浪人中に、佐賀市に当時あった予備校の諸先生方からお聞きしました。

近所の幼馴染が事務員をしていました。元気かな?)

 

私が小さい頃、アメリカからのお土産のビーズの赤いペンダントをいただき、数年前まで持っていました。

いつの間にかこのガスライティング被害にあってたからなのか、いつの間にか切れていて泣きました。

せっかくの思い出だったのに。ひどいと思いました。

亡くなった叔父さんすみません。

そういえば、思いだしたのですが、

東京にうちの父と受験時に行ったバブルがはじけた年に、東京で父と私で道路を歩いていた時に、

いきなり若い男性から「廣田先生、先生でしょう?こんなところでお会いできるなんて」等と呼ばれ驚いたことがありました。

父は「えっ!違います」と言ってたのが聞こえましたが、すぐにそれでは、と立ち去られました。

父に聞くと、何回かそういう事があったと聞いてます。

 

うちの父と利武伯父さんは結構顔が似ていたため、

どうも生徒さんが「懐かしい」等と話しかけられたことがあったようです。

この話こそ、懐かしいですね。

叔父さんの御葬儀に行きましたが、長年連絡を何度もお宅にお電話しているのですが、

つながらずに困っています。

うちの父が亡くなった事をお伝えを他の親類にはしたのですが、連絡取れずにおり、

従姉達には伝わっているのか心配です。お渡ししたいものがあるので、

もしよかったら、ご一報ください。

writed by 廣田佳子(ハンドルネーム エアゼキウリエル)