2021年5月23日のエアゼキウリエルより転用記載します。

 

私、エアゼキウリエルは、思うのだが、数日前に知り得た哲学といったものに、

まとまっており、私も同じように大部分を共感しつつも、

「怒り」に関しては、スルーしなさい的な感じみたいだが、

私は、人間のこの時間と空間における、

その社会に必要な改革を行うにあたって必要だと考える。

必要な改革を行う為の、

社会正義をおこなうにあたり、「怒り」の部分のエッセンスはそのいかばかりか、

その環境におけるその改革を行うにあたっての、

重要なものであるものだとの宇宙における必要十分な部分であるのであれば、

その必要十分な重量がそれが必要十分、

或いはそれ以上に必要な存在があるのだが、

ある「怒り」の一部分のとある部分の必要な部分と、

その数理的な部分も必要性がその「怒り」の性質などの「質」の部分と、

「本質」部分やその他の性質等々に対して各々等々に対してそれぞれに必要性が違って関わってくるものであるものだと自分は思います。

物事のそれぞれの異なる性質によるものとの兼ね合いにより、それぞれに対して数理的な部分変化の特性もあると考えられるものだけでなく、その他のあらゆる万物流転の諸要素を複合的に考えながらでなければ、この世、現在の「今」たらしめることは、

考えにくく、すべてをもたらしめるものは神の領域の人間の考え付かない部分の空間と時空を超えたところの領域の部分を兼ね備えた、

高次のレベルでのものからの諸要素から、その時点で起こりうる、「一点」としての社会変化として、その「怒り」は起こりうる、必然のものであると考えられなくもない、のです。

 

宇宙の法則によるものの、

いうなれば、逸脱したものといったものであるところの部分は、

宇宙の裁量の部分もあるものであるのだから、

人間、そして、現在のこの三次元には存在しないものが、

ある存在のものとの調和がある為に、

我々には、感知してはならないものすら存在するのである。

人間には、生まれてから死ぬ、といった、

生きとし生けるもののそのサイクルの繰り返しであるこの世なるものの存在であることは、

「生きる」そして「死ぬ」事がなくならない限りにおいて、

この一法則の元、これ、この存在がある限りにおいて、

万物は一線上の元にるものであるのだから、

それを超えるものというものに、

我々が、この生死の上に存在するものである限り、

色と光と温度と、その大きさ、炎の上げ方、音等の空間における炎の上げ方のほうぼう全てに至るまでに、

その時間と空間におけるその現時点での全人間の論理・自分時間・他人時間等の複合的なエッセンスを

必要とすると考えられるために、

私流の哲学論理の中では、私、エアゼキウリエルは「怒り」は必要だと定義づける。  Writed by エアゼキウリエル

 

数理的、というものの言葉の意味合いに書いた理由は演 算、だとは思うが、そこの機能までが演算すべてを理解できていないため、現時点で検証できているわけではないためである。しかしながら、数学の応用は多層方面に広がりを見せていくために、計り知れない。

その為、すべてをはあくできるわけではない。多分、演算を超えたものが、宇宙という広がりと、次元を超えた空間、時間を超えたものがある。

そのため、魂の次元のある存在と溶け合う”異プラスα”や0と1の間の部分ここがまた昔からでもあり、今も気になっている。

0と1とは生み出すところにかなりの多層の異なるエネルギーの組み合わせがいるので、そこには

おもしろい掛け合いがあるのでしょう。男女の関係もそれにあたり、子供はその宇宙のハーモニーから生み出されていく。

なので、一人一人を大切にしなければならない。

宇宙からの贈り物なので。                   Writed by エアゼキウリエル 廣田佳子