エアゼキウリエルは”真実であり正義”でありながらも、

まず、存在する”心”が、まっすぐ背骨となってあることが屋台骨として必要だと思う。

 

人が自分のすべての一つ一つの行為の振り返りを行わないままに強欲に生きていく人は、

周囲を巻き込んでしまって、

 周りを惑わせることにつながってしまいかねない。

 

人を愛するといった、人を理解しようとする心をもって接する時にこそ、

 

エアゼキウリエルは、愛の波動とともに、

小さな地域より、

世界中に発信できるのでないかと思う。

疑念、疑惑の目を向けることがいかに愚かなことであろうかと思う。

 

人種とか、民族とか、男女の差などなく、

まず、マイナスな目でなく、「受け入れる」ことが必要不可欠で、

母親のような愛情でもって、自分の近くの人間だけでなく、

他国の方々や、病気や障害のある方々や、罪を犯した方々の等など、

自分の育ってきた環境と、違っていたりするような人々を、

ある意味、

自分の理解しがたい人を「理解しようとする心」があらゆる意味で、必要と思われます。

 

コロナやエイズな度の病気もそうだけど、

自分の”理解”を越えた者への恐れ等のマイナス感情が人を理解しようとする前に働き、

社会的排除へと追いやろうと働くのです。

 

 エアゼキウリエル一人きりで考えているような理論・論理における考察は、

社会福祉や医療従事者等の現場の人間等だけといったような考え方ではありません。

一部の専門性を持っている者や

宗教観といったものというものでもあり、多ジャンルを含める中での考察であり、

このコロナの渦中、隠者のように一人きりで考えあぐねており、

考察・検討・批判・提唱・提言をしていく事によって、世の中に対して少しずつでもお役に立ち、

自分の考えなどをまとめることによって、再検討したいと思っています。

まずもって、頭の中を整理して、自分一人で考えながら、余裕をもって楽しむために、このブログを立ち上げました。

私流の一人きりでの一考察なので、あまり、よくまとまっていませんが、そのうち何とか出来ていくだろう、なんちゃって、といったエア感じで、昔流行った?エアインチョコならぬ、新緑光感&(安堵)+理論+色彩感+香り+空気+空間+場所+環境+私+(その他万物全て)ってはさんでいます。

面倒なんで、全部入れられないので、空気のカッコに(ひっくるめてしまいましたが)、

プラスは単純なプラスではないのですよね。

&(安堵)とかも~ここにとりあえず、数理的なもの全部入れておきます((笑))

 

哲学的なジャンルなど多岐に渡る私流の考えを一人きりで考えることでの醍醐味があるのです。

これは、このブログ全体は一人きりでの私流一考察であり、我流な為、誰との話し合いもなく、

ただ単に思い浮かんだことを書き連ねております。ので、誰に遠慮することなく、どんどん書いていきたいと思います。

 

誰にでも、ごく当たり前に、人と対峙する時に、

礼節を持って真心を込めて相対するには必要な心構えなのではないのでしょうか。

 

特に専門性を持った方は一層そのような、考え方を自己覚知し、

いつも、その言動を一方的な偏った物事の考え方になっていないのかと自己覚知することが大事です。

 

そのような立場の弱い人をその社会正義を持って働くために根本的に重要なのは、

その人間性が極めて、大事です。

大人物でない人こそ、口八丁手八丁であり、口裏を合わせて、お茶を濁し、ごまかす傾向にある。

心が広く、愛情深く、本物の優しさを根底にもつ真の意味での人格者であれば、

表面的に、口上手く、ごまかしたりすることではできない、

 

真の人間力・人間性といった、全人格が真に円熟し、円満でありながらも、

表面的にだけにとどまることがなく、

更なる精神性の高潔さへの高みを一層目指して発展して精進して行くのではないのだろうか。

しかしながら、ただ表面的に祈るだけでは何もならないのです。

帰依して、お金を払って、ただ単に表面的に口先だけで祈っていても、

愛情でもって相手への理解をして、行動に移さ無ければ何にもなりません。

意味がないのです。

 

上っ面だけの、愛情表現に類するものも、中身がなければ意味がありません。

「行動で」とは、真の意味で、相手を理解しようとして、行動しているのでしょうか?

 

裏も表もクリーンでありながら、

そこに、嘘や偽りが少しでもあれば、利用者はその人間性を信頼できないし、

未来への蜘蛛の糸のような望みすら絶たれることもある。

そこに、愛は、そして理解はないのです。

 

真の偽りのない誠実な愛情、といったものだけが、

信頼性を構築をできるものなのだとエアゼキウリエルは思いました。

本当の人間対人間といったものの中で、

完璧な人間はいないまでも、何とかなるものであっても、

嘘があっては、その不誠実さから、人は距離を置いていきます。

実際的に重要なのは、金より人を大事にする人であり、

人生において「和を持って貴しとなす」といった聖徳太子のような考えが、

人間性の和合を保つことに大事だと思います。

 

ただ単に、知識があるだけでは、ダメなのです、

そのような表面的な知識は、時代によって移り変わるものなので、

そのような知識も、情報が錯綜しているだけに、見極めが必要であると思います。

デマや嘘もその中にはありますし、見誤ったものが中に入ることもありますから、

十分な注意が必要です。

機械や情報・噂などは改変できるために、

すべてが100パーセント信頼できるものとは思われませんし、

信じすぎてはならないのかもしれません。

 

このようなことも、自分自身が、嘘をつかずに、

誠実で真摯な対応をしていくことなどによって、

裏表のない、

正義と誠の心でもって、誠心誠意真心を尽くして事にあたり、

俯瞰的なものの見方でありながらも、

相手(利用者)への共感性を強く持って伴走して行く中で、

地域社会での中において、

人とのコミュニケーション等(面接技術)などを行うことが

大事なのではないでしょうかということを、エアゼキウリエルは提唱します。2021年5月13日writed by 廣田佳子