2021年8月8日文転用記載。

 

エアゼキウリエルは男女での友情は通用すると思う。

私の一個人の私流一考察としてですが、

それは、共感性が高い人間性においては可能だと思えるからです。

 

例えばなのですが、

明らかにメランコリー親和性の性質をお持ちの方などは、

協力等を惜しまない人間性を持つ方などは、

 

嘘がなく、誠実で律義さがあり、隣人愛をもちながら、

人に対してのコミュニケーションができるだけの

信用できる人間性を兼ね備えた、”精神的に大人”同士の、

協力的でありながらも親身な親切丁寧な関り合い方といったものは、

共感性が高いほど、

そのような信頼関係を築くにあたり、

必要なものでもある為に、

それは単に性別は男女というものであるというだけで、

人間性同士の関わり合いであり、

必ずしも、男女関係を意味合いばかりにストレートにすべてが結びつくものではないのですが、

 

男女が一緒にいたり、

単に信頼関係を構築するにあたり、

周囲が早合点するような風潮といったものが、

これからは、一考察なのですが、

 

日本の歴史の流れからまだ、

いまだに、

そのような男女間=恋愛モードになるなだのといった早合点しかできない方がいるのは、非常に残念です。

また、若い人でも、そのように男女を意識しかできない人もいるのは、そういう観点からしか見れないのでしょう。

 

昭和一桁代の「男女席を同じくせず」といった時代の風潮といったものいった、

当時の時代の考え方からの流れがまだ、年配の方々やなんかの風潮として残っており、

その名残は派生して、若い者の中にも受け継がれており、

それは古い考えが残っている者等から

受け継がれてきていて、性格のようになっている者もおるし、

また、宗教観からもそのような考えをお持ちの方もいらっしゃることから、

一概には言えない、複合的なエッセンスが絡んでいるものもあるのだといえるのでしょうが、

それぞれ、各人、人々はいろんな考え方があるのですから、

各人の考え方を他人の考えをおかしいなどと言ったり、

押し付けないことがこの現代社会の多様性を認めていく中において、

必要な人間関係においての考え方の再構築が必要なのではないのでしょうか。

 

これは、何も男女関係の事ばかりでなく、

人が何をしようが、恋愛にしろ、就職にしろ、

何人もやることにおいて「自由」のはずですが、

 

他人が「あいつはこんなやつでけしからん」

などといったような色々お節介がかえって、

めんどくさい人なのですが、ご自分では気づけていない人が多く、

他人の価値観を認めないことから争いが起こってくるのだと、私は思います。

 

ものすごく、価値観の違うような他人の事が気になる人などは、

自分に自信がない事が多く、

人と違うやりかたや、個性などを他人と考え等が違うからと言って、

あげつらう人というものは、

上から目線で人を見下したり、価値観の違う人間をあげつらっていて出ないと、

自分を保てない

精神的に大人になり切れない性格上、他人の事を常に気にしていないといけないような、

部分の人といったものが、他人を認められない部分を持っており、

いつまでも、大人になりきれず、周囲に迷惑をかけるもので、周囲が疲弊してきます。

 

適切距離感を保てる関係性を持ちながらの、お付き合いができると男女でも友情は育つものなのです。

子どもたちを見ていてもわかるものなのです。

その関係性は、普通に、ガハガハ笑えるいいやつ的な思いでしかないことが結構あるものですよ。

 

また、男女であるからとその関係性を好意を持つことはいい事のはずなのに、

その他の人間が見誤り、関係性に茶々を入れたりと、

本人同士にしか適切な距離感はわからないものなのに、他人がお節介して采配することなどによって、

ほんとの男女関係でもないのに、その関係性が崩れることがあるために、水を差してはいけないと思います。

単なる噂でその信頼関係を崩されるのは、間違っているのではないのかと思われるのです。

 

男女だから退けないと、見誤ったらいけないなどと、早合点して適切な距離を保ちなさいなどと、するのはかえって微妙なラインでの関係性が保たれなくなり、バランスを崩すことになりかねないこともある為に、安心して他人の事は他人に任せきれない、

このおせっかいな早合点する風潮は、かえってなんにもないところになんにもないところに誤った風評やなんかの悪い波動を引き起こし、

また、このような風潮を広めるような、いかがわしさを早合点するもの等が、

実はその人がいかがわしいのであるのではないのでしょうか。

それは、実は合わせ鏡のようなものであり、他人の誤った噂などを広めるような、ご自分たちの事が、

そのような見誤っ心の考え等を実は合わせ鏡に映し出された欲望として映し出されたものを

心の裏側に持っているのではないのかということもあり、

他人の事を動向と采配したりいうことを一切やめないといけないと思う。

 

微妙な好意は実際には、相乗効果から良いハーモニーをかえってよい波動として生み出すことすらも考えられることすらあるのだと思われ、その采配、裁量は神様の領域のものも含まれており、宇宙の中で、当人同士、バランスをとりながら何らかの我々といった、当事者二者間と神様以外のものにはわからない何かが生み出されていく事は、二者間に任せるべきでありましょう。

 

例え、何かあるとしても、当事者二者間の大人である者同士の責任であり、それは当たり前の事でありましょう。

大体、精神的に大人である円熟した人間性をお持ちの方ならば、本物の信頼関係は構築できるので、

他人の事をとやかく言いませんし、干渉いたしませんし、本当の本気の理解をしないでいるのは愛ではありません。

薄っぺらい、表面だけの関係性であると、疑いの目線で見てしまうのでしょう。

信頼関係の構築はバランスの取れた心理状態のお互いの均衡した関係性を表します。

そこには、立ち入ってはいけないプライバシー領域があり、

人は人、自分は自分といった他人の領域にずかずかと入り込むことはありません。

人を制圧しません。

 

なので、他人との関係性を大事にできる人間は、男女であろうと、なかろうと関係なく、分け隔てなく友人にはなりえるのです。

というのが、持ち前の持論「男女の友情論・肯定派論」です。 writed by エアゼキウリエル 廣田佳子