【今回の記事】
長谷川博一(臨床心理士)著
「殺人者はいかに誕生したか〜『十大凶悪事件』を獄中対話で読み解く〜」(新潮文庫)より
第八章 秋葉原無差別殺傷事件 加藤智大

【記事の概要】
《無差別事件に走った人々の多くに共通点がありました。幼少期から思春期にかけて、特に問題行動を示していません。初めてで問題行動が取り返しのつかない脅迫事件だったというケースが多いのです》
《彼(加藤智大)は青森県でも屈指の神学校を卒業しています。近所の人の彼に対する印象は「まさにエリート」「小学生の時から挨拶をしてくれた」「おとなしくて成績が良い」などです。
 別のある人たちは、成績ではなく、彼は家族をやや違った眼差しで捉えていました。「教育熱心だった両親から厳しく育てられた」「よく叱られていた」「真冬に、薄着で玄関前に締め出されていた」「しつけか虐待か分からなかった」》
《「親が書いた作文で賞を取り、親が描いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧。親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ。好きな服を着たかったのに、親の許可がないと着れなかった」(携帯専用掲示板の本人による記録)これらの記録は、親から愛されず、存在を受け入れてもらえず、愛着形成に失敗した子供、言い換えれば虐待(主に精神的)の環境に育った人の自己認知を描写したものだと言えます。エリートを生む過程で起こるこの種の虐待にしばしば指摘できるのは、親は「子供のため」と認識しつつも、実際は親の願望を子供に押し付けているという本質です。私はそれを「きれいな虐待」と名付けました。》
《親の期待に応える良い子は、概して自尊心が低いと考えることが必要です。成果を上げたとしても、それはやった事への評価であって、自分と言う存在そのものを受け入れられているわけではありません。「良い子」の突然の破綻として、「良い子が続けられなくなる」という挫折の体験が契機となることがしばしばです。彼の場合、進学校に入り、それまで維持していたトップの成績を、この学校では手にすることができなかった事は大きいでしょう。そこから親の期待に沿う「良い子」に亀裂が生じ、社会的不適応と自己否定の心が漏れ出ていったと考えられます。》

【感想】
 2008年秋葉原で発生した、7人が死亡、10人が重軽傷を負った秋葉原通り魔事件。加藤死刑囚が犯した行為は到底許されるものではありません。しかし、彼が、人間の人格を決定づける家庭という場でどんな養育を受けていたのかを振り返ることは、健全な子どもの育成を考えるうえで示唆を与えるものと考えます。
 事件発生後、多くのメディアが、彼が母親から受けていたという「虐待」について書き立てました(例えば本記事中の「真冬に、薄着で玄関前に締め出されていた」「しつけか虐待か分からなかった」等)が、私は、中には今の家庭にも見られるものもあるのではないかと考えました。
 幾つか振り返ってみましょう。

子どもを通して自分を誇示する親
「親が書いた作文で賞を取り、親が描いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧」
という本人の携帯掲示板の本人記録。
 私はこの一文を読んで思い出したことがあります。それは、私が以前勤務していた小学校でのことです。その学校では毎年、夏休みと冬休みの自由研究(作品)について、各学級から2点ずつ、特に優れたものが選ばれて、中央廊下に掲示されることになっていました。実は時々、その中の作品に、明らかに親の“手”が入っていると思われるものが見られました。学年と作品の完成度があまりにも不釣り合いなのです。その展示は、親も参観できるようになっているのですが、子どもはもちろんのこと、親御さんも我が子の作品が展示されることを誇らしく感じていたのではないかと思います。そのため、完成度を高めるために、思わず自分の手を入れてしまう親御さんがいるのではないでしょうか。その背景には、この事例と共通するものがあるような気がします。
 因みに、自由作品に親がアドバイスするなら、“作成”に手を貸すのではなく、「子供には魚を与えるな。魚の釣り方を教えよ」と言う言葉の通り、“作成の仕方”を教えるのが良いと思います。

「子どものため」と厳しくする親
 また、記事中の「よく叱られていた」「教育熱心だった両親から厳しく育てられた」という家庭は今もあるようですし、「親は『子供のため』と認識しつつも、実際は親の願望を子供に押し付けているという本質」も、学業やスポーツに関わらず、自分が果たせなかった夢を我が子に託して、懸命に応援している親御さんも少なくなくいらっしゃるように思います。

 因みに、先日ご紹介した児童精神医学界のレジェンド佐々木正美氏は次のように指摘していらっしゃいました。
「教育とは子供自らの成長を待つこと」
「親が子供の成長の邪魔をしなければ子供は健全に成長する」
心に留めておきたい言葉です。

「結果」にこだわる親
 更に、気になる指摘が以下のものです。
「『良い子』の突然の破綻として、『良い子が続けられなくなる』という挫折の体験が契機となることがしばしばです」
「成果を上げたとしても、それはやった事への評価であって、自分と言う存在そのものを受け入れられているわけではありません」
 この場合の「成果」とは“結果”、「自分と言う存在」とは“努力”ができる自分、と解釈できます。子どもの学校や大会での「結果」の方にこだわっている親御さんは決して少なくないように思いますが、記事で指摘されているように、自分よりも良い結果を収める子どものライバルが現れれば、この事例と同様に挫折のきっかけとなってしまうことも十分に起こり得ます。
 更にもっと大切なことは、挫折した後に立ち直ることができるかどうかは、日頃「安心7支援」等の愛着形成行為で、安心感をどれだけ子どもの中に“貯金”しているかどうかにかかっているということです。
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 以上のことから、加藤智大は、決して特別な人間ではなく、氷山の一角である可能性は十分にあると考えられるのです