いつもの近所のスーパーに行きました。すると私がいつも並ぶ「微笑み」の素敵な店員Aさんのレジが混んでいたので、隣のレジの列に並びました。するとレジ店員さんは、一人前のお客さんにとても「優しいトーンの声」で接客していました。期待は高まります。
 しかしその後、私の番になってレジ打ちをしてもらっている時も、何故かこちらの気持ちが明るくなりません。Aさんの時はいつも私の気持ちが明るくなります。「優しい声」も「微笑み」も同じ「安心7支援」の中の行為なのになぜでしょう?
 理由はその後、その店員さんが「お飲み物は別の袋にお入れいたします」と話した時に分かりました。客である私を見ないで話しているからでした。そのせいか、私はどこか機械的な冷たい印象を受けました。一方で、Aさんは微笑む時は必ずこちらを見てくれていましたし、「飲み物を横にしても良いですか?」等とこちらを見て聞いてくれていました。

 その瞬間私は、自分が現職の頃、自閉症スペクトラム障害の子どもを担任して間もない頃の“ある失敗”を思いだしました。知的遅れのない見た目は普通の6年生の子どもを担任したのですが、その子は新学期が始まって間もなく登校を渋るようになりました。電話で理由を聞くとその子はこう話しました。
この間、僕が先生に話しかけた時に、先生は僕を見ないで返事をした。その時の先生が怖かった

 私がその店員さんから受けた「機械的な冷たい印象」が、その子には「怖い」と映ったのだと思います。きっと健常の子どもも登校を渋りはしないものの、寂しい気持ちになっているはずです。ただ、情緒面の弱さを持っていないので、それを我慢して生活しているのだと思います。しかし、その感覚過敏の自閉症の子どもは正直に私に教えてくれたのでした。改めて、自閉症の子どもとの出会いがなければ今の私も無かったと感じます。

 どんなに優れた「微笑み」や「声」をもってしても、視線」という自分の愛を相手に向けるための“照準”が無ければ、自分の気持ちは決して相手に届くことはないのですね。