生まれたばかりの赤ん坊は、何か困ったことが起きると、そのことを泣いて母親に伝えようとします。しかし、そんな時にお母さんが助けに来てくれなかった赤ん坊はどうなるのでしょうか。精神科医の岡田氏の文献をもとに紹介します。
 
子どもの中で何が起きているのか?

 お母さんと離れて暮らすことになったり、長い期間にわたって母親が出かけていていなかったりすると、子どもは最初母親を探し出そうとしたり、泣きわめいたりして、お母さんを呼び戻そうとします。そして、お母さんが来てくれないことに対して怒りや抗議をぶちまけます。この時期は「抵抗」と呼ばれる段階です。
   しかし、それでもお母さんが戻ってこないということになると、子どもは泣くのを止めますがが、しょんぼりと落ち込み、自分がお母さんから見捨てられたと思い、打ちひしがれます。指吸など、自分で自分を慰める行為をすることでなんとか気持ちのバランスを保つこともありますが、お母さんさんへの期待は乏しくなり食欲も低下します。「絶望」と呼ばれる段階です。
   更に時間が経つと、お母さんを求める気持ちはほとんど無くなっていき、とうとうお母さんの姿が心から消えていく「脱愛着」の段階に達します。生まれたばかりの無力な幼子にとって、いくら呼び続けても来ないお母さんを求め続け、母親以外を拒否すれば、それは自分の死につながることになります。そこで、止む無く自分が愛した存在を自分の心から消し去るのです。それは、自分が生き延びるための“本能と言えるでしょう。

「愛着」が左右する「第二の遺伝子」
   生きる術の基礎を学ぶべき乳児期において、「母親でさえ自分が困った時に守ってくれなかった」という経験をした赤ん坊は、自らの命を繋ぐため、本能的に「それなら自分のことは自分で守るしかない」という新たな生きる術を自らの意識の奥深くに刻み込みます。そのため、自分に関わろうとする人は、その子にとっては、“自分がやろうとしていることを邪魔する人”となり、最終的に、自分からは周囲との関わりを求めない“人間嫌い”の大人をつくり出すことになるのです。
   生まれて間もない赤ん坊にとって、頼れるのは母親だけであり、一人では何もできません。母親のお腹の中から生まれてきた時から本能的に当てにしていた母親との「愛着(愛の絆)」があれば、赤ん坊はその母親を頼りに生きていこうとするでしょう。しかし、その信頼していたはずの母親から裏切られるという経験は、自分と母親との間に存在したはずの「愛着(愛の絆)」を崩壊させます。そして、「自らの命を繋ぐ」という“本能”が、「愛着」に頼らない“別の生き方”を確立してしまうのです。これこそが、精神科医の岡田尊司氏が「『愛着』は第二の遺伝子」と呼ぶ所以ではないでしょうか。
   なお、そのことは、泣いている赤ん坊を放ったらかしにしておく“ネグレクト”の場合だけに限りません。赤ん坊に対する世話の仕方が大人の気分によって変わったり、複数の大人が養育に当たることで世話の仕方が異なったりすることでも、赤ん坊は不安になります。そして、自分を不安にさせるその大人に対する信頼感は揺らぎ、結果としてその大人との間に健全な「愛着(愛の絆)」が結ばれることはないでしょう。その結果、やはり大人との「愛着(愛の絆)」を当てにしなくても済む別の“生き方”を模索せざるを得なくなります。同時にそれは、「愛着不全」という不安定な人格を持った人間をつくってしまうことを意味するのです。

時間の経過とともに変わる「愛着」
  また、先に紹介した、「抵抗」⇒「絶望」⇒「脱愛着」という子どもの意識の変化は、「時間が経つにつれて母親に対する子どもの意識が次第に変わっていく」
ということを意味しています。つまり、母親が、困っている子どもの下へ駆けつけるまでの時間の長短も「愛着」の形成に影響を与えるということが分かります。ですから、子どもとの「愛着」を形成するまでは、家族の協力を得ながら母親が赤ん坊の近くにいることができる環境を作り、育児に専念することが望ましいのです。