「所属と愛の欲求」が満たされると次に、「承認(尊重)の欲求」を満たしたいと考えます。
「所属と愛の欲求」を満たされて、信頼できる誰かと心でつながり安心感が持てたら、次は「他者に自分の存在価値を認めてもらいたい」という欲求が湧くのです。この具体的な姿には色々な解釈があろうかとは思いますが、私が子ども達に指導するときは、「承認の欲求とは、自分が誰かの役に立つ行動をとった時に、その相手から「ありがとう」と言われることによって、自分のとった言動を他者から認められたいと思うこと。「尊重の欲求とは、誰かが自分にとって迷惑な行動をとった時に、その相手から「ごめんなさい」と言われることによって、自分という存在が他者からないがしろにされず大切にされたいと思うこと、と考えて指導しています。
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   以前私が勤めていた学校の中で、学級崩壊に陥ったクラスがありました。その時、研究主任と言う立場にあり担任を持っていなかった私は、その学級の臨時担任となりました。担任となった私は子供達に「『ありがとう』と『ごめんなさい』を1日にどちらかでも1回は言おう」という目標を提示し、毎日帰りの会でその日はどうだったか振り返りをさせました。すると、荒れていたその学級は、見る見るうちに落ち着きを取り戻し、教室の雰囲気も変わりました。これらのことから、その学級が荒れていた原因は、子供達の「承認の欲求」と「尊重の欲求」が満たされていなかった、つまり、友達から認めてもらいたい、大切に思われたいという気持ちが満たされていなかったためだと思われます。
   また、私は、子ども達の生活の中に「ありがとう」につながる会話の流れを作るようにしています。それは、相手に求めたいことがある時は、「始めに相手の意思問う」ということです。例えば、友達から消しゴムを借りたいときには「消しゴムかしてね」ではなく①「消しゴム借りてもいい?」と相手の気持ちを確認させます。そして相手が②「いいよ」と言ってくれたら、③「ありがとう」と言わせるのです。とても自然に「ありがとう」の言葉が生まれます。このように、友達にお願いをする場面は生活の中で何度もあります。その度に、「○○してくれる?」とお願いさせるのです。
   何よりも、自分の消しゴムを「かしてね」とだけ言われ一方的に持っていかれるのは、自分が大切に思われていない(尊重されていない)という感じがして、いい気持ちがしません。借りる友達が「この消しゴムは、Aさんの物」というAさんの立場や権利を大事に思っている(尊重している)からこそ「貸してくれる?」と確認するのです。
   家の中でも同じです。例えば、食事中に、「ご飯をもう一杯食べたい」と思ったときに、「おかあさん、おかわり!」と、いかにも親がご飯をよそうのが当たり前のように一方的にお願いするのではなく、「お母さん、ご飯お代わりもらえる?」と、相手を尊重した言い方をさせて、母親が「どうぞ」とよそってお茶碗を渡してくれたら「ありがとう」です。(ただし、これはあくまでベターな方法です。ベストなのは、自分がお代わりしたければ自分でよそうことですね。)
   余談になりますが、この習慣がないと、学校生活の中で、あるトラブルになることがあります。それは、例えば休み時間中に、近くにいた友達に「消しゴム借りるよ」と言って消しゴムを借りた時に、その言葉がその友達に聞こえていないと、「なに勝手に消しゴムを持っていくんだよ!」とその友達から文句を言われ、けんかになったり、「先生、○○君が僕の消しゴムをとりました。」と先生に直訴されてトラブルになったりするのです。
   この習慣づけに最も効果があるのは、お父さんとお母さんが毎日お手本を見せてあげることです。「お母さん、ごはんお代わりもらってもいいかな?」とお父さんがお母さんに問いかけ、お母さんが「いいわよ。はいどうぞ。」とご飯をよそってくれる。すると、お父さんは「ありがとう。」とお礼を言う。また、頼まれたお母さんが何かで忙しい時には、「ごめん、今○○で忙しいの。自分でよそってくれる?」という姿も見せましょう。子どもは、「相手は自分の思い通りに動いてくれる時ばかりではないんだな」と、頼んだ相手の人権の存在にも気づくでしょう。(この後で述べますが、断る時に、冒頭に「ごめん」を付け加えることは、相手を「尊重」することになり、他者を嫌な気持ちにさせません。)
   以前私が担任していた知的障害を伴う自閉症の男の子と、休み時間にバドミントンをしていた時のことです。私が打ったシャトルが脇の方へそれてしまい、私は瞬間的に「ごめん!」と言いました。するとその子はそのシャトルを見事に打ち返しながら「だいじょうぶだよ」と言ってくれました。私は嬉しくなって、帰ってきたシャトルを打ち返しながら「ありがとう!」とお礼を言いました。すると、その子は私打ったシャトルを打ち返しながら「どういたしまして」と応えてくれました。
   その男の子は私のミスに対して「だいじょうぶだよ」、私のお礼に対して「どういたしまして」、というミスした私を尊重する答えを返してくれました。逆に、その子はわたしから「ありがとう!」「ごめん!」という「承認・尊重欲求」を充足する言葉をかけられました。あの時の互いに心癒される「承認・尊重ラリー」は今でも忘れることはできません。
(次回「後半」へ続く)