世の中には、「暴力」ではないけれども、よくないことをした子供に「」を与える親御さんもいらっしゃるようです。ちなみに「」とは一般的に、「罪または過ちのある者に対して与えられる(犯した過ちとは無関係の)苦痛を伴う不快な刺激制裁」とされています。例えば、「テストの点数が悪かったからお小遣いを無し」等です。この場合、「罪または過ち」が「テストの点数が悪かったこと」に当たり、「苦痛を伴う不快な刺激、制裁」が「お小遣い無し」に当たります。
   以前メディアを賑せたニュースですが、「子どもが他人に石を投げたので、しつけとして子どもを車から降ろし置き去りにした」という事例が北海道でありました。子どもにとっては知らない土地で車から降ろされ置き去りにされることは「苦痛を伴う不快な刺激」に当たると考えられるため、これは「罰」による指導です。
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   罰による指導のデメリットは、主に三つ考えられます。
   一つ目は、不快な刺激で不適切な行動を抑えようとすると、その不快な刺激が与えられない場面では、子どもはその行動を抑えられなくなることです。例えば、体力的に勝る父親が罰を振るっていると、子どもは、父親のいない場面では母親の言うことを聞かなくなるという場合があるようです。「罰を受けたくない」という恐怖を恐れる気持ちだけが子どもを支配し、親の指導の意図が子どもに届いていないのです。子どもがいけない行為をしたら、その行為と関係のないを与えても意味がありません。「なぜそのことをしてはいけないのか」ということに気付かせなければならないのです。
   二つ目は、子どもが一定の罰に慣れてくる罰の厳しさを少しずつ上げていかなければ効き目がなくなってしまうことです。先の置き去り事例の場合も、初めは「悪いことをしたら山へ連れて行くぞ」と脅していたそうですが、子どもが慣れてきたので、最終的に車から降ろして置き去りにしなくてはならなくなったのです。
   三つ目は、親子間の愛着弱体化してしまうことです。せっかく獲得した「安全基地」が、罰という恐怖ストレスを与えられることによって、その安全性が低下していく恐れがあります。車から置き去りにされた男の子も、二度も車から置き去りにされ、ある意味、親子の「愛着(愛の絆)」という糸が切れた凧のようになって、さまよい歩いたのではないでしょうか。私たちも、「もうあなたのことなんか知りません!」「あなたはうちの子じゃありません。家から出て行きなさい!」そんな言葉は使わないよう気をつけなければなりません。
 そのような場面で本来行われなくてはならないのは「罰」ではなく「指導です。指導と言っても、子どもを怒ることではありません。子どもは、一方的に激しく怒られると、精神的に軽いパニックになってしまい、大人が言わんとしていることが伝わらないということがよくあります。正しい指導とは、子どもがした行為によってどんな望ましくない状況が生まれるのかを教えたり、どうしていれば良かったのかを気付かせたりすることです。
   先のように、テストの点数が良くなければ「どうしていれば点数が良くなっていたのか」を気付かせたり教えたりすることです。
   また先の“置き去り事例”でいえば、例えば、実際にゴツゴツした石を子どもに見せながら、「これを投げて、他の人の体や車に当たったらどんなことになりそうか」と考えさせます。子供は「すごく痛い」 「血が出る」等と気付くでしょう。そのうえで、他人に迷惑をかけたり危害を与えたりすることはしてはいけないということを教えます。一方、を与えても、“不快さ”は感じてもその“危険さ”に気付くことはありません。ただし、そのことをしたらどういうことになるかを分かってわざとやった場合には、厳しく叱ってあげなければなりません。