私は昨日次のような記事を投稿し、「共生社会」の重要性を訴えた。

特別支援学校の在籍者が急増!〜我が国が目指しているのは「共生社会」か「分裂社会」か?!〜


   なぜ健常者と障害者との「共生」が必要なのか? それは、そこに互いに学び合えるものがあるからである。


   健常者の言動から障害者が学ぶこと。

   健常者は障害者にとって最高のお手本一緒に行動していると、その場その場に応じた望ましい話し方や行動の仕方を見ることができる。けれども、別々に生活していると、その学びや気づきが生まれない。「障害者だから障害者だけの生活でいいだろう」と決めつけるのは障害者にとって失礼である。中には、実際に真似してみる子供がいたり、目標として心の中に留める子供がいたりするものだ。

   以前私が特別支援学級で担任した知的な遅れ(IQ54)のある自閉症スペクトラム障害(ASD)のR子は、交流学習として6年生の通常の家庭科の授業に参加。交流学級の皆んなが先生を見て話を聞くように自分も先生を見てしっかり話を聞いていた。先生が質問して、皆んなが手を挙げれば自分も手を挙げた。指名されれば、皆んなの発言内容を参考にして自分なりに自分の言葉で質問に応じた内容のことを話していた


   障害者の言動から健常者が学ぶこと。

   先のASDのR子はある日、交流学級の皆んなと社会科見学に出かけた。その行きのバスの中で、皆んなのおしゃべりの声がだんだん大きくなっていき、運転手さんへの迷惑にもなっているが、子供たちはそれに気付いていない。その時、大きな音に対して拒否反応を示す特質を持つASDのR子が手で両耳をふさいだ。それに気付いたある子供が「みんな、Rちゃんを見て!」と言った。両耳をふさいでいるR子を見た皆んなは、自分たちの大きい声に気付き一瞬でおしゃべりをやめた。健常者にとって、障害者の反応は自分たちの生活環境の質を知るバロメーターでもあるのだ。

   また、ある授業参観の日。たくさんの親御さんが学校を訪れる。言われたことを字義通りに行動に移す特質を持つASDのR子は、「廊下でお客様に会ったら挨拶しましょう」という私からの教えを守り、廊下で出会うお客様にハキハキと自分から挨拶をした。健常の子供達も各学級の朝の会で同じような指導を受けていたのだが、恥ずかしがって挨拶出来ない子もたくさんいた。いつしか交流学級の子供たちは、「自分もRちゃんのようにあいさつをしっかりできるようになりたい」と言い、R子は皆の挨拶の手本となっていた


   こんな場面は、障害者と健常者が「分裂」した環境で生活していては決して生まれることはない。「共生」する環境だからこそ生まれる学び合いなのである。


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