真面目な人ほど損をする気がする日に読みたい小さな心の整理

駅で電車を待つ女性、黄色いカーディガン

今朝、駅のホームで、コートのポケットを探っても定期が見つからなくて、改札の手前でいったん立ち止まった。

 

背中に人の気配が増えていくのがわかる。空気が少しだけ冷たくて、電車の到着を告げる音がやけに明るい。

 

結局、定期はポケットじゃなくて、昨日のバッグの内ポケットに入っていた。自分で入れたくせに、私はそれを「見つけてあげた」みたいな顔で取り出した。

 

その数分後、ホームでスマホを見ながら歩く人に肩が触れて、反射的に「すみません」と言ってしまったのも私だった。相手はイヤホン越しにこちらを一瞬だけ見て、何も言わずに去った。小さな接触。

 

小さな謝罪。小さな、なんとも言えない損。こういう“どうでもいい出来事”が重なると、私は決まって、ひとつ大きな問いに吸い寄せられる。

 

「努力って、結局どこまで報われるんだろう」

 

たとえば、同じように働いて、同じように気を遣って、同じように真面目にやっているつもりなのに、結果がぜんぜん違う人がいる。

 

私の周りにもいる。毎回、くじ引きで当たりを引くみたいに、配置も上司もタイミングも“当たり”に寄っていく人。

 

別に悪い人じゃない。むしろ感じがいい。だけど、あまりにもスルスル進むから、こちらが勝手に置いていかれた気分になる。

 

私は「努力が足りないからだよ」って言う言葉が苦手だ。たぶん、努力が足りない瞬間なんて、誰にだってある。だけど問題は、努力の量を増やしたところで、結果の差が埋まらないことがある、っていう部分。

 

そこに触れると、急に話がしょんぼりしてしまうから、みんな明るく「運も実力のうち」とか言って、上手に片づける。

 

でも本当は、片づけたくない。だって、運の差があるって認めるのは、ちょっと怖いから。

 

頑張ればコントロールできる世界にいたい。自分の努力で未来をねじ曲げたい。

 

そう思う気持ちは、たぶん私の生活の、ほとんど全部に染みている。料理を作るときも、肌荒れに悩むときも、婚活で返信が来ない夜も、「原因を突き止めれば、改善できるはず」って考える。改善できないと、自分が無力みたいで嫌だから。

でも、運が混ざると世界は“べき乗”になる

昼休みに、仕事の合間に少しだけ読んだ記事で、「成功は才能より運に左右される」とする研究の話が出てきた。

 

エージェントベースのシンプルなモデルで、才能は必要条件だけど十分条件じゃなくて、最終的に“いちばん才能がある人”が“いちばん成功する人”になりにくい、という結論が示されたらしい。

 

こういう話を読むと、私はなぜか安心する。努力を否定されたわけじゃないのに、肩の力が抜ける。たぶん、私が普段こっそり感じていた違和感に、名前がつくからだと思う。「あ、やっぱり、私が変に怠けているだけじゃないんだ」って。

 

それと似た概念で、“成功が成功を呼ぶ”みたいな現象もあるらしい。最初の小さな有利が、次の有利を呼んで、積み重なっていく。いわゆる「マタイ効果」って呼ばれている。


たとえば、最初に評価された人は次のチャンスが来やすいし、最初に目立った人は次も見つけてもらいやすい。反対に、静かに頑張る人は、静かに頑張っているまま、静かに埋もれやすい。

 

これって、努力の質というより、“見つけられ方”の差に見えてくる。

 

そう考えると、私が朝の改札で定期を見つけられなかったのも、単に注意力の問題じゃなくて、私の一日が「余裕のない側」にちょっとだけ寄っていたせいかもしれない。

 

昨日、寝る前にSNSをだらだら見てしまった。今朝、ギリギリに起きた。髪を整える時間がなくて、心がそわそわした。そういう小さなズレが、他人との接触や謝罪にまで連鎖して、最後に「私っていつも損してる」と感じるところまで運んでしまう。

 

じゃあ、努力って何なんだろう。

 

努力は、運に勝てないのか。


それとも、運が来たときに拾えるようにするのが努力なのか。

 

私はたぶん、後者の方がしっくりくる。


けれど、しっくりくるだけで、救われるわけでもない。

だって、“拾えるようにしていたのに、運が来ない”日がある。


逆に、“拾う準備ができてないのに、運が降ってくる”人もいる。


その不公平さに、私はときどき腹が立つ。誰にも言わないけど。

 

婚活もそうだ。


丁寧にメッセージを返して、相手の趣味を調べて、会話の糸口を用意して、いい雰囲気で終わったはずなのに、次の約束が決まらない。あれは努力が足りなかったのか。私の文章がつまらなかったのか。選ぶ相手が悪かったのか。


でも、ほんの数日後、別の友達が「返信遅いのに、なぜか好かれちゃう」みたいな話をしているのを聞く。努力って、どこへ行った。

 

そんなとき、私は“運”という言葉を、急に軽んじたり、逆に神格化したりする。


運がすべてだと思うと、今の私はただの被害者みたいになる。


努力がすべてだと思うと、今の私はただの怠け者みたいになる。


そのどちらにもなりたくなくて、私はたぶん、ここでずっと揺れている。

 

夜、帰宅して、洗濯機の終了音を聞きながら、窓の外の街灯をぼんやり見た。


今日いちばん頑張ったことって何だろう。


今日いちばん運がよかったことって何だろう。


思い出そうとすると、意外とどちらも、よくわからない。

 

ただ、ひとつだけ分かるのは、私は「勝つ」より前に、「納得したい」んだと思う。


勝ち負けで言い切れない日々を、せめて自分の言葉でほどいていきたい。


努力が報われる世界を信じたい気持ちと、運が支配する現実を知ってしまった目。


その両方を持ったまま、明日も普通に会社へ行く。

 

運に勝つ方法なんて、たぶんない。


でも、運に負けた日の自分を、必要以上に責めない方法なら、少しずつ覚えられる気がする。

 

そういう“小さな覚え方”を、私は今日も探している。