激ウマもやし炒めのコツ!
夜の十一時前、換気扇の下だけがやけに明るくて、そこだけ別の部屋みたいだった。
スーパーの袋からもやしを出したら、透明の袋の内側にうっすら水滴がついていて、冷蔵庫の匂いと、少し湿った野菜の匂いが混ざった。
シンクには朝のマグカップがまだそのままで、スマホは食卓の端で画面だけ何度か光ったけれど、返したい連絡でもなかったから見ないふりをした。
こういう夜は、ちゃんと料理をするつもりだったわけじゃないのに、何かを雑に終わらせるのも嫌で、結局いちばん安かったもやしをフライパンにあける。
もやし炒めなんて、節約の味方みたいな顔をしているくせに、ちょっと油断するとすぐ水っぽくなるし、妙に生活の機嫌まで映す料理だなと思う。今日うまくいかなかったことが、しなしなの白いひげみたいに見えて、まだ台所に残っている気がした。
昼すぎ、会社でとなりの席の人が、お弁当のふたを開けながら「最近、自炊ちゃんとしてると気分いいよね」と言っていた。悪気のない声だったし、たぶん本当にただの会話だった。
でも私はその言葉に、べつに刺さらなくていい小骨みたいなものを感じてしまって、へえ、そうなんだ、と笑いながら、頭のどこかで少しだけむっとしていた。
気分よく生きるための正しい習慣みたいな話を聞くと、できていない日の自分が急に部屋の隅へ追いやられる。
昨夜だって、コンビニのスープとグミで終わった。洗濯物も取り込んだままソファに山になっている。自炊をしている人より、自炊をしていない自分のほうが、今日はよく目についた。
そんな、あまり人に言いたくない気分のまま、もやしを洗ってざるに上げた。
袋から出しただけで済ませる日もあるのに、今日はやたら丁寧にやっている。丁寧にすれば、雑だった一日まで少しは帳消しになる気がしたのかもしれない。にらを五センチくらいに切って、にんじんを細くして、にんにくと生姜を刻む。
包丁がまな板に当たる乾いた音を聞いているうちに、気持ちが整うというより、気持ちをごまかしている感じがした。整える、なんて言うときれいすぎる。
実際は、余計なことを考える暇をなくすために手を動かしているだけで、しかもそのことに自分で気づいている。
もやし炒めって、手軽な料理の代表みたいに扱われるけれど、ほんとうは妙に繊細だ。半端な火の入り方だと青っぽさが残るし、長く触るとすぐくたっとして、あっという間に「思ってたのと違う」になる。
参考にしたレシピでは、油を回した野菜に塩を振って、熱湯を加えてさっと火を通す「炒めゆで」がすすめられていて、もやしの青臭さと炒めすぎの両方を避けやすいらしい。
最後に水溶き片栗粉で薄く汁気をまとわせると、味が野菜にちゃんと絡みやすく、材料や調味料を先にそろえて短時間で仕上げるのもポイントだとされていた。読んだとき、料理というよりタイミングの話みたいだなと思った。
熱したフライパンに油を落とすと、少し遅れて匂いが立つ。もやしとにんじんとにらを入れて、ざっと混ぜ、塩を入れて、そこで熱湯を加える。
じゅっと強い音がして、一瞬だけ白い湯気が上がった。
あの音が好きだ。何かが失敗から救済される直前みたいで。ざるに上げて水気を切ると、いつものもやしより少しだけ背筋が伸びて見えた。たったそれだけで、さっきまで「どうせもやしだし」と思っていた自分が、急に手のひらを返すのだから現金だ。鍋を拭いて、あらためて油を少し。
にんにくと生姜を入れた途端、部屋の空気がそれまでと別物になる。帰宅してからずっと、自分の中に薄く張っていた仕事のにおいみたいなものが、そこでやっと追い出される。
調味料を入れて、最後に水溶き片栗粉を回し入れる。もやし一本一本に味を着せるみたいな、あのひと手間が意外と好きだった。派手ではないのに、手を抜いたかどうかがいちばん出るところで、誰に見せるわけでもないのに、変なところだけ見栄っ張りだなと笑ってしまう。
人には「簡単なもので済ませたよ」と言うくせに、ほんとうは簡単なものほど、少しでもちゃんとした形にしたくなる。
忙しい日に限って、そういう妙な執着が出るのはなんでだろう。頑張っている姿は見せたくないのに、雑な自分だけは自分で見ていたくない、みたいな。
皿に盛ってひと口食べたら、しゃきっと小さな音がした。
大げさじゃなく、ちょっとびっくりした。もやしって、ちゃんとするとこんなにおいしいんだ、という発見より、ちゃんとできたことに自分が思っていた以上に救われていることのほうに驚いた。
たかがもやし炒め、という顔をしたまま、案外こちらの機嫌を左右してくる。
そういう食べもの、たぶん他にもいくつかある。卵焼きとか、インスタントじゃない味噌汁とか、誰にも褒められないのに、うまくいくと少しだけ自分を雑に扱わなくて済むもの。
でも、こういう小さな成功でさえ、誰かに言うほどのことじゃないとも思う。
SNSに載せるほどでもないし、「今日はもやし炒めが完璧だった」と報告したところで、たぶん困られる。みんなもっと大きなことを話している。転職のこと、結婚のこと、貯金のこと、美容のこと。
画面を開けば、きれいな部屋で、きれいな器に、きれいな言葉が並んでいて、その横で私は深夜にフライパンを振りながら、もやしの火入れに成功しただけで少し泣きそうになっている。しかも泣くほどでもないから、余計に誰にも言えない。
これって、私だけなんだろうか。
生活って、もっと大きな決断でできているように見えて、実際はこういう小さすぎる出来事にずいぶん引っぱられている気がする。
昼に言われた何気ない一言とか、返信していない通知とか、安売りのもやしが思ったより上手に炒められたこととか。
自分の機嫌を自分で取る、なんて言い方はあまり好きじゃないけれど、機嫌というより、放っておくとどこまでも雑になりそうな自分を、台所の湯気で少しだけ引き戻す夜はある。
そういうのは立派でも前向きでもなくて、もっとせこくて、もっと切実だ。
食べ終わった皿には、細いにらが何本か残っていた。換気扇の音だけが回り続けていて、シンクの底はまだ冷たい。
また明日になれば、こんなこと、うまく説明できない気もする。







