1599年 伊達政宗は、東軍総大将である松平元信(五大老筆頭 正三位内大臣 牟佐・毛野2ヶ国及び里見領を除く布佐国 計250万石)に呼応し、五大老の1人で西軍に属する山内義景(従四位権大納言 岩代国神指及び出羽国米沢と庄内 計125万石)を攻めるべく義景の居城である神指へ向かっていたが、伊達家の重臣で政宗の従兄弟である伊達成実と片倉景綱の2人、山内家の重臣で義景の実弟である長尾顕景と樋口兼続の2人は密かに談合の上和睦し、尚且つ、他の奥羽磐岩の大名達とも手を結び奥羽磐岩連合軍を結成。その報に驚愕して急ぎ軍の体勢を整え反転して来た元信率いる東軍を佐斯国の荒川にて迎え撃ち見事に破り、その後、西軍の中心的な存在である石田三成、大谷吉継等の一派を巧みに粛清して一手に天下の実権を握る事に成功し、遂に天下統一を成し遂げる。
 1605年 政宗は最大の協力者である義景に恩賞として、岩代国神指及び出羽国米沢と庄内に代わり、新たに佐斯国及び毛野半国、更に旧領である高志国春日山 計175万石へと大幅に加増する。自らは嘗て織田信長の父の信秀が居城としていた古渡の地の利の良さに目を付け、服属した全国の諸大名を総動員して天下の居城に相応しく豪壮華麗へと大規模な築城(天下普請)を行う。そして、朝廷より征東大将軍を請い受け古渡幕府(伊達幕府)を開府する。
 1619年 依然、大坂城に君臨し大きな影響力を持つ豊臣秀吉の愛妾 淀殿とその遺児 秀頼母子の旗下に政宗によって滅ぼされた松平・石田・大谷等の遺臣と紀伊国九度山に蟄居していた真田信繁・後藤基次等全国から集まった浪人衆によって世に言う“大坂の陣”が勃発するも、全国から諸大名 計25万の軍勢を動員してこれを鎮圧し、淀殿と秀頼母子は自刃して遂に豊臣家は滅亡し、政宗は完全に天下を平定する。1635年 政宗は70歳の波乱の生涯を終え、幕府は1869年まで265年間続き、後世に於てこの時代は古渡時代と呼ばれるのである。
 そして、1870年 明治維新を迎えて古渡は中京と改め日本の首都として現代に至るのである。
 尚、これは1957年にプリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレット3世が提唱した定式を元に、ブライス・デウィット博士によって提唱された量子力学の観測問題に於ける多世界解釈論により無数に存在するとされる“パラレルワールド”の1つである。