昨日の続きです。
彼はボールに話しかけていた
ジネディーヌ・ジダン自身はハードワークしてきたからこそ成功したのだと主張し、生まれつきの才能だとは常に認めたがらないが、並外れた才能を持って生まれた選手だということは明らかだ。
そう、確かに、カンヌで始め、そしてボルドーで、ワールドカップ・チャンピオンズリーグ優勝選手となるべく成長する時間は、かかった。だが、その才能は、小さい頃から明らかだったのだ。
ジダンは、アルジェリア人の両親スマイルとマリカの間に生まれた5番目の子供で、カタラーヌというマルセイユ近郊の高い失業率・ドラッグ密輸・売春などが悩みの労働者階級の町で生まれ、
高層団地の下でボールを蹴ったのが最初だった。
スカウトのジャン・バルーはそこでジダンを見出し、カンヌに連れて行ったのだが、初めてジダンを見たときに感動したのだった。
「彼は、ボールに話をしていたんだ。」
後に、こんなふうに回想していた。
「そんな光景を、それまで見たことがなかったよ。ヤジッド(ジダンのミドルネーム)は、貧しい環境でも戦士の資質を持っていた。彼はハングリーだったんだよ。」
そして、その後は、彗星のようにキャリアを進んだのだった。サッカーが発明されて以来、最も「芸術」に近いものだ。
2006年に彼が引退するまで、彼は全てを手に入れた―――ワールドカップ、ユーロ2000、3つのリーグでの優勝、バロンドール。
だが、ジダンの憧れの監督であるグアルディオラもそうだったが、最後の何シーズンかは優勝もなく、漂流した。
フラストレーションが最高潮だった。彼のキャリアの最後の試合である2006年のワールドカップ決勝での、マルコ・マテラッティへの頭突きは、それにふさわしい最後だった。
「僕が引退したときは、監督にはなりたくなかった。」
と、ジダンは、振り返る。「何か違うことに、夢中になりたかったんだ」
彼は、ある種の放浪者(ノマド)になった。まだマドリードからは引っ越さずに、彼の両親のルーツであるアルジェリアを旅し、バングラデッシュからスイスまで、多くの国で多くのお金をチャリティーに費やした。
時々、フランスの衛星放送局である「サテライト・プラス」に現れ、主な試合番組に出演し、ダノンやアディダス、レゴのコマーシャルにも出演した。しかし、どこも、彼を捕まえておくことはできなかったのだ。
監督への入り口
2009年の3月、彼はマドリードに戻った。主に、ペレス会長のアドバイザーとしてだ。その年に、彼はスポーツディレクターのホルヘ・バルダノと交代し、ジョゼ・モウリーニョのスタメンとペレスとの間をつなげたのだった。
彼の兄、ヌーレディヌは、「一度始めたら、彼は抜け出られなくなったんだ」と語る。
「彼がほしかったのは、試合前の緊張、プレッシャーだったんだ。そしてそれは、監督になることでのみ、もう一度手に入れることができたんだ。」
彼は徐々に、毎日のトレーニングに関わってくるようになり、それが、また2012年のモウリーニョの退陣につながったともいえる。「スペシャルワン」は、もっとレフェリーをこき下ろし、彼の「口での戦争」に参加してくれるような代弁者が欲しかったのだ、と日刊紙「SPORT」は書いていた。
ジダンは、監督になりたくなった。2012/2013年を、彼はブランコ(レアルのあだ名)のユースチームで過ごし、将来有望だったジョゼやアルバロ・モラタと一人づつ話をし、励まし、説得し、助けた。
そういったこと以上に、彼はドレッシングルームが恋しかったのだ。
2013年にカルロ・アンチェロッティがベルナウに着いたときに、ジダンはアシスタントになった。
「それこそ、僕がやりたかったことだったんだ」とジダンは、輝くような笑顔を見せた。続けて、アンチェロッティは、ユヴェントスでの選手時代の監督であり、唯一、彼がアシスタントを務めてもよいと思う人だったのだ。
「選手を引退した後、僕は大勢の人に会い、沢山のことをし、そしてサッカーについて沢山のことを学んだんだ。仕事は少ししかしてないけどね。だけど、結局のところ、自分の力を注げることに帰ることしかないんだ。人生にね。僕らは自分が愛することをするしかないんだよ。僕の場合、それはサッカーだった。」
彼は、監督資格を取る為にフランスに戻り、トレーニングに集中した。彼は妙な5人制サッカーチームに入り、マーカーコーンを配置して熱心に指揮をとり、対戦相手を分析した。
ギー・ラコンブは本誌に語った。
「彼が17歳のときには、全く想像することができなかっただろうね、彼は、選手以外の何者でもなかったから。」
ギー・ラコンブは、カンヌのアカデミー時代にジダンの最初の監督であり、UEFAプロ監督ライセンス取得のための個人的指導者であり、パリサンジェルマンの前監督であり、ただ一人、ジズーの監督としての資質を分析できる立場にいる。
「ジダンが選手時代から既に持っていた力は、修整力だね。」とギーは続けて言う。
「彼は他の選手のプレイを改善していたんだ。ピッチでは、素晴らしい才能の選手だったからこそ、直感的に問題解決もしていたしね。それだけでなく、彼よりも才能のない選手から、最高のプレイを引き出していたんだよ。
今、彼は、直感以上のものを求めているわけだけど、彼は既に、こういったチームに対しての直感的修整思考を持っている。いつも、他の選手のことを理解していたしね。」
ラコンブの指摘は、重要なポイントだ。偉大な選手がもつ批判精神というものは、監督になったときに、自分自身ができたことを何故実行できないのかを理解できないものだからだ。グレン・ホドルは、よくその例として引き合いに出される。(偉大な選手として古巣で指揮をとったが、全くよい成績を残せず、解説者になった。)
一方で、選手としての力は、彼に比べて発揮できていなかった、モウリーニョ、ヴェンゲル、そしてレアルでの監督をしたベニテスなどは、選手としての並外れた才能がなかったゆえに、よりよく問題の改善点を見つけることができるわけだ。
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今日もここまでにしときます。結構難解な文章で、手こずってます。
この後、物語は、アンチェロッティの元を去って、監督として歩き出したジダンの姿、レアル内部事情、ジダンの変化などなど、さらに掘り下げていってます。好きだわー。だけどしんどいわー。ながいわー(笑)
面白い。ジダンタイプの野生的天才児と、如才なくオールラウンドに学ぶことをしっかりしてきたほかの監督との比較、そして、選手としては同じぐらい天才といわれたグアルディオラが、そもそも選手時代から監督を目指していたこと。
色々、ジダンとの比較ができます。
イメージですが、ジダンは単純な野生児で、単なるサッカー技術の天才、人格的には不安定なタイプ。という風に見ていました。
放浪して、行き場がなくて、刺激が欲しくて監督になりましたー、というのも、なんというか衝動的で深みがなさそうだし。
ちょっと不名誉な結果が出たら、即、違うことをやるか、あるいは、アシスタントコーチというのが天職じゃないのか?
そんな風に、天才ということすらハンデになるような監督業に、ちょっとだけプラスになる情報が出てきましたね。他人の才能を引き出せる、他人を理解できる選手だったということ。
ハングリーが彼を奮い立たせ、大きなプレッシャーを快感に変え、その快感を味わいたくてまた監督になりました。
それだけなのかな?次も興味深いですねー(っと宣伝活動しておきました笑)
途中で放り投げる可能性も出てきましたが(笑)ご興味ある方はまたお付き合いください。


