「ライ麦畑でつかまえて」等、著名な小説を数々残したアメリカの作家、J.D.サリンジャーが亡くなった。享年91歳。
実は私は、「ライ麦」は途中で飽きて読まなかったんだ。
でも、中学生のころに「フラニーとゾーイー」を読んで、何か大きく衝撃を受けた。
爆笑問題の大田さんが、これを「影響を受けた作品ベスト3」に入れているのも、今日知ったんですが、なんとなくこの「フラニーとゾーイー」の思い出を、語ってみたくなった。
あらすじは、「フラニー」では女子大生フラニーが恋人レーンの振る舞いに徐々に耐えられなくなっていく過程を描いている。
彼女は7人兄弟の末っ子で、長男のシーモアは、禅や道教など東洋哲学や、キリスト教思想などに傾倒して、自分の兄弟の多くに影響を与えた。
その影響で、エゴというものを汚らわしいものというような考え方をもち、恋人のやることなすことが「自意識過剰のかっこつけ」であり、自分自身もそれと何も変わらない、というジレンマに落ちいって、引きこもりになる。
「ゾーイー」ではフラニーの1つ上の兄であるゾーイーが、魅力的な話術で楽しませながら、徐々にそのジレンマから救い出そうとする過程を描いている。
当時、アメリカ人作家の書くものや、フランス人作家の書くものに魅力を感じて、次々と読んでいった中に、このフラニーがあった。
何度読んでも、最後にゾーイーが示してくれたフラニーへのメッセージ、「太っちょのオバサマが見ているから、靴紐をちゃんと結ぼうと思うし、舞台もちゃんと勤めようと思う(彼は俳優)。そして太っちょのオバサマこそが、キリストなんだ。」という物語のヤマ場が理解できなかった。
禅思想や東洋思想にカブれた兄に、エゴを嫌悪するような教育をされた二人のうち、年長であるゾーイーが、ノイローゼになりかけた年少のフラニーを救い出す、という場面だ。
この解釈は、いつまでも私にとっては救いではなく、最後に拍子抜けしながらも、無理やり「人間の生まれつきの よくなろうという気持ち=自分を反省しなきゃという気持ち=他人も気遣わなきゃという気持ち=愛」だろう、と理解しておいた。
今、この作品をもう一度読みたいけれど、実家にあるので、文章を記憶から呼び覚ましながら、振り返ってみる。
いやゆる商業主義、自由競争の世界で、「エゴを嫌悪する」思想というのは、ときどきこのサリンジャーのような人に、何か目新しい思想だったんだろうな、と思う。
自分自分、ばっかりじゃなくて他人にも思いやりを持とうね、っていうことを実現するのって、今の日本でも、できてはいないし、競争とか進歩と、時に相容れない考え方だ。
自意識過剰、というような、ごく身近な人が持っている、必要以上に自分をよく見せようとする気持ち、これは若い時代にはダレでも持っている。なんてったって、よりよい配偶者に対する競争の中に生きているんだから、そりゃーしょうがない。
競争社会で切磋琢磨して真剣勝負しながらも、他人に敬意を払う。
武士道的な精神と、禅の精神が息づく日本では、かなり、いいバランスもあった。
「ムダの排除」「利益・効率性の追求」によって病んできたような気がする、今の日本。
切磋琢磨も必要だけど、その先を見つめる気持ちがないと、切磋琢磨だけでは病んでしまうんだろう。
その先に、宗教ではない、新たな思想が、必要になっていると思う。