平成から令和となり個人レベルで続々と、自分以外ではなく自身を生きることが起きている。

自身を生き抜くこと…

そこからの視点だけが宇宙の真理の達成に繋がる。

その為に今、為されることが為されていると感じずにはいられない。

そして生き抜くとは、生命を生き抜く事ではなくキャラクターを辞めて、己れが真の己れを生き抜くということ。

そこだけが全ての鍵となるのではないだろうか。


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正月ふと、扉が開いている感覚を感じ、視るとそれは、ものすごく大きな鳥居のように視えた。
それは温かく人々を迎え入れるような愛そのもののエネルギーを発し、
それと同時にその鳥居は、人間の自由意志が尊重されている…というか、自由意志そのものに視えた。

そういう次元の扉が…自由意志が立っている。

この新しい扉は、古い価値観から言えば、まるで魔法の世界の扉…
そこから入るのではなく、この扉自体がもうそれであり…
この状態が、ワタシと捉えて来たものの真実の状態であった。



“人間の状態”となってしまっていたエネルギー。…

今までガチッと一体化され固まった状態となっていたエネルギーが解体された事により、一体化されていた時は不可能だった、意識を自由に使う事が出来るようになった。
それにより、なりたい“状態”を自由自在に選べる。

ここ何年かはかなり自由だと感じていた“状態”は、まだキャラクターの状態で自由ではなかった。



源を『わたし』と表現するならば、

個のワタシと捉えているものは、
『わたし』『本質』『キャラクター』であり、
それは、人間で言えば、精神(心)、魂、肉体の三位一体。
そして、『わたし』から二段階の眠りがあり、肉体=キャラクターをやって来た。

『わたし』とは、意識のエネルギーであり、ワタシというレンズを通して全てを見ている。
見ているのは、この肉体のワタシではなく、『わたし』が見ている。

全てを見ている視点が、キャラクターであるワタシから本質へ移行し、
いずれはその二段階の目覚めである意識の移行を得て、全てである『わたし』に還る。

そして、『わたし』を海に例えるなら、ワタシとは海の一滴…。



そして、「人間=原罪」という言葉のまま、
ガチッと固まり一体化された“人間の状態”となっていたエネルギーが、キャラクターの次元であり、人間はどこか罪の意識を抱えてしまっているとしか表現のしようがないエネルギーと一体化していた。

その状態で一体化されてしまっている状態がキャラクターの状態であり、その状態では、全てがガチッと一体化されてしまっている為、そのままの状態で在るしかなかった。
そして、その状態を起点とし、そこから全ては顕れ、その次元で全てを捉える事しか出来なかった。
その状態では、意識を自由に使う事は出来ない。

その一体化されていたエネルギーにひびが入り解体が起き、一体化されていたそこから解き放たれた時、同時にそれまでキャラクターと一体化していた『一滴』である意識がそこから解き放たれる。
すると、今まではキャラクターの次元に滞在していた『一滴』である意識が、今度は本質での滞在が始まる。

一体化が解かれ、別物として捉える事が出来るようになった一滴は、キャラクターの次元に顕れていた“人間の状態”となっていたエネルギーが顕れた時、そのエネルギーはダミーだと見抜き、そのエネルギーを選択しなくなる。
意識を自由自在に使えるようになる。

それは、0である点で、“0で在る”の状態が始まりも終わりもなく繰り返されている次元、
キャラクターの次元からの完全なる解放。

顕れたエネルギーを別として視る事が出来るようになるのは、それまでそれと一体化されていた一滴が、解放された事により、
一滴の滞在次元が本質に移行し、その領域から、その顕れているエネルギー(キャラクターの次元)を視るが可能となった。

それが、魔法使いのような感覚にさせる。
一体化が解体された事により、顕れるエネルギーをダミーだと捉えるようになる。
意識をどう使えばよいかがわかるようになる。

そしてそれは、右でも左でもなく、上でも下でもない、0…。
全ての執着から開放されているような状態で…

0には全てがあり、
全てはここから湧いている。

宇宙が進化し続けているというのは、より0を極めているという事であり…
これは全てに通じる事で、
意識を執着のないその状態に使う事で、意識が創ってくれた道を、このワタシが歩いてゆくという魔法のような生き方に変わってゆく。

不快や心地悪さは、全てがキャラクターの次元でのダミー。
キャラクターからの解放が起こり始める。



終わり。