朝日新聞全国版、生活面で連載されている「患者を生きる」。
保田圭ちゃんの記事が3日目を迎えました。



昨日は、モーニング娘。を卒業したところまで。
涙、涙であった卒業公演の写真が載っていましたね。
懐かしいなぁ。


あのコンサート。
もちろん。
観に行けませんでした。

当時は現場と呼ばれる場所にはあまり参加していませんでしたし。
それに何より。
チケットがすぐ完売で入手することも難しかったと記憶しています。


そんな自分がけいちゃんの卒業式の様子を知ることが出来たのは翌日。
各局のニュースやワイドショーで流されたコンサート映像と。
朝から買いあさったスポーツ新聞のおかげでした。


今、けいちゃんの連載を読むために、毎朝、朝日新聞を買いに走っています(笑)
ラックから朝日新聞を探して抜き出す。
そのたびに。
およそ7年前、新聞を買いに走ったあの日のことが思い出されて。
ちょっとキュンとしています。




脱線しましたね。

娘。卒業後、つんく♂さんに勧められた病院を訪ねたけいちゃん。
ここで、新しい主治医となる、国際医療福祉大三田病院の渡邊雄介先生に出会ったわけです。


今回、先生が書いた当時のカルテも朝日新聞の記者さんは見たようですね。
先生がカルテに記した細かい病状の記録。
けいちゃんが“扁桃炎”に苦しんだ記録です。

娘。卒業後、少なくなった歌う機会。
きっとファン以上にけいちゃん自身が楽しみにしていただろうディナーショー。
そのリハーサルもままならないほど。
まだまだ続く“扁桃炎”との闘い。

いつまで苦しめられるのだろう?
自分ならそう思ってしまいます。



先生が手術を勧めたのは2009年2月。
ハロプロを卒業し、女優保田圭にとって12作品目となる舞台『ミコトマネキン』の稽古に入る前の頃ですね。


「歌に影響しないですか。声は変わりませんか」

けいちゃんが一番気にした部分です。
自分も、ブログで喉を手術をしたと知った時はそのことが頭をよぎりました。
けいちゃんの声に惚れているんだと言い切れるくらい(本当は他にもいろいろありますが)、大好きな部分ですから。


でも、その不安はすぐ消え去りました。
誰よりも歌に、自分が歌手であることにこだわっているけいちゃんです。
そんなリスクがあるなら決断はしないだろうと。

その時は“扁桃炎”の苦しみなんてほとんど理解できていなかったので。
すぐにそんな気持ちに切り替わっていました。



先生に声は変わらないことを説明してもらい、さらに、歌がうまくなるかもしれないと聞いたけいちゃん。
それでもまだ迷いはあったみたいですね。

手術を無理に勧めず、けいちゃん本人が決断するのをゆっくり待って下さった先生。
本当に素晴らしい先生と巡り会えたのだなと。
先生に感謝の気持ちです。


その後も、もちろん症状は変わらず。
2009年夏の舞台『エブリ リトル シング』が終わった後。
けいちゃん本人から手術について先生に切り出したそうです。


舞台後で少し休みをもらえたことがきっかけでしょうね。

娘。当時は休みがほとんど無く。
卒業して少しはラクになったとは言え、一週間入院できるほどの時間はずっとありませんでした。

卒業後は一時期、バラエティー番組にゲストで出演する機会が増えましたし。
大阪で週一のレギュラー番組もありました。


娘。は卒業しても、ハロプロメンバーとしてコンサートやイベントの仕事。
ハロプロ系番組への出演。
さらにディナーショー、やイベント。


そして、舞台。
この時点でけいちゃんの出演作が13作品。
2006年以降は、年間3本以上出演しているのですから。
一週間ものまとまった休みをとることを簡単には決められませんよね。


それでも、ハロプロを卒業したことで、前年までよりは時間的に余裕ができたようで。
まとまった休みを取りやすくなったことが、後押しになったようです。
事務所に相談してみようと一歩を踏み出すきっかけでした。



事務所に相談し、スケジュールの調整がつくと、すぐに決まった入院の日。
トントン拍子でことが進みます。
けいちゃんは拍子抜けだったそうです。

きっとその時点では、まだ多少の迷いがあったのでしょうね。
周りが固まってきたことで、決心がついたのかな?思います。



2009年9月。
入院当日。
手術前日。

我々ファンに突如伝えられたブログの休止。
「たまには休むのもいいのでは?」
というのは、自分の正直な気持ちでした。

多少の胸騒ぎはありつつ。
「けいちゃんが帰ってくるのを気長に待っていよう。」
そう思っていたその頃。


チーズバーガーとポテトフライを「食べ納め」していたけいちゃん(笑)
自分なら何も食べられないかもなぁ…と思います。


決断したら迷わない。
潔い。



そして。
手術の日を迎えます。