前回、桐島聡さんについて、1975年5月31日、広島の実家に電話をかけた以降、消息不明になったというところまで書きました。

今回はその続きを書きます。

 

指名手配後、「内田洋」という偽名の人生が始まる。なぜこの名前を選んだのか。

桐島の供述だと指名手配後、神奈川県川崎市の飯場で1年ほど過ごし、日雇いなどの仕事をして、1980年代から約40年間入院するまで藤沢市の工務店に勤務していたという。

 

川崎の飯場で過ごす前だろうか。指名手配直後の夏、藤沢市内で工場を経営していて、従業員の紹介で桐島と見られる男を一か月ほど雇っていた男性がテレビ局の取材に応じた。

「髪形は写真の時と変わらない。メガネはかけてなかった。無口でおとなしくてかわいい顔をしていた。仕事は一生懸命やってましたよ」

その映像がyoutubeにアップされ、興味深いコメントを見つけたので、長くなりますが抜粋させていただきます。
「老人のおっちゃん(雇用主の男性)が言うには、失踪のニュースを見た直後でタイミングもぴったりで怪しかったから自分は絶対これだって思ったけど、本人に指名手配犯じゃないかと言うと、普段はずっと穏やかでおとなしいのに、すごい勢いで大声出して頭に血が上ったように捲すように「違う!」と強く否定してくるから、その勢いで否定する威圧に押されて段々「そうっかー」ってなったらしい。でも指名手配犯か尋ねて最初に居なくなるまでの2日間で、一度じゃなくて3回くらい?は「やっぱり桐島じゃないか」って何度か聞いては結構ねばった。」

「そういえば、最初に手配犯か聞いた話で、その話とは違う話をはじめると穏やかな内田さんに戻るらしく、また指名手配の話をすると同じ様子(すごい勢いで大声出して頭に血が上ったように捲すように「違う!」と強く否定してくる)になるっていう繰り返しだったそうだ。」

この怒り方は異常というか洗脳されているような感じがする。

高校時代は穏やかで柔らかい印象だったというが、大学時代はきつい広島弁で男気のある話し方だった、やはり影響されやすいタイプだったという。山谷の越年資金闘争に参加して何かが変わってしまったのだろう。

雇用主の男性に指名手配犯じゃないかと尋ねられた2~3日後に桐島と見られる男は何も言わずに姿を消した。

その2年後、雇用主の男性は桐島と見られる男と再会し、男が藤沢市内の工務店で働いていると聞いた。

 

1980年代から約40年住み込みで働いていた神奈川県藤沢市の工務店の寮は木造2階建てで、家賃は2万5000円。勤務先にほど近い場所にあり、一人で暮らしていた。

身分証や保険証は持っておらず銀行口座もなかった。

桐島が内田洋の偽名で身を寄せていた工務店は、藤沢市南部の閑静な住宅街の一角にあった。日当1万円で手渡しだった。

 

藤沢市に実家がある男性が、桐島の姿を最初に見たのは40年くらい前だった。「(桐島が)30歳くらいかな。あんちゃんという感じで、自動販売機の返却口とかによく手を入れてじゃら銭を探しているのを何度か見たときに、あれ、お金に困ってんのかなって。それは何度か目撃して」

近くの70歳男性は、約20年前、「生い立ちがはっきり分からない不思議な人だけれど雇うことにした」と桐島の勤務先の関係者から聞いた。言葉数は少なく、周囲と交流している様子もうかがえなかったという。

(男性が最後に桐島に会ったのは亡くなる約1か月前。マスク姿で歩いており、声をかけると、つらそうに「体の具合が悪いんです」と話した。)

男を知る近くの70歳女性は、公開されている指名手配の写真を見たことはあったが、事件との関連を考えたことはなかった。日常的にあいさつを交わし、好印象を抱いていた。

男は普段からニット帽をかぶり、黒縁眼鏡をかけていることが多かった。「今思えば確かに背格好などは似ていたが、桐島容疑者がこんな近くにいたかもしれないなんて……」と驚いていた。

 桐島がコロナ禍の前まで行っていた銭湯の常連客は「いつもニコニコしている。優しそうな感じの人だった」と話した。この銭湯にはほぼ毎日、午後3時から5時ぐらいに、遅くても6時ぐらいまでの間、通っていたという。

「仕事仲間と冗談をかわし、仲良くしていた。『うっちゃん』と呼ばれていた」神奈川県内にある土木関連会社代表の60代男性は桐島についてこう話す。桐島が働いていた工務店と取引があり、年に数回現場にきてもらった。桐島は無精ひげ姿だった。車や重機の運転をする姿は見たことがなかったという。桐島自身はあまり会話は交わさなかったというが、「やさしい口調だった」という。

 

 36年来の友人は「臆病な感じのおとなしくて、お酒を飲むと陽気になっちゃう。鼻歌歌ったり。保険証もないから歯が全然なかった。」

身分証も保険証もないから医療機関を受診できず、銀行口座も開設できない、携帯も持てない、不便な生活だっただろう。

戸籍のない人間として生きた49年の人生はどんな思いだっただろう。暗い闇を想像してしまう。

約40年勤めた工務店は従業員が5人ぐらいで、おそらく社長が小さいことにはこだわらないおおらかな人で、桐島がどのような人物かあまり詮索せずに雇ったのだろう。

私は登録派遣型の日雇いの仕事をしている。個人事業主扱いなので確定申告は自分でやっている。派遣会社は年末調整はやってくれない。確定申告してもしなくても会社からは別に何も言われない。色んな現場に行っているが、現場によっては給与の支払いが銀行振り込みだったり、現金支給だったりする。銀行振り込みの場合、所得税を差っ引かれるが、現金支給の場合は所得税は差っ引かれない(なぜそうなのかわからないが)。桐島の場合も「自分で確定申告してね」っていう感じだったのだろう。確定申告しなければ、税務署のデータに「内田洋」という人物が登録されず、捜査の網にかかることはない。

逃亡生活の大半はずっと神奈川県内に潜伏して、海外への渡航歴はなかったという。

「海外で暮らしたが最期は日本が良かった」と話していたというが、末期がんで起きるせん妄か何かではないか。

 

公安も桐島が東京から1時間ぐらいのところにいるとは思っていなかっただろう。何年かに1回、桐島の故郷に行って、当時の同窓生に桐島について帰ってきていないかとか色々聞いていたりしていたようだ。同窓生はそのたびに迷惑な思いをしてきたようだ。

 1987年に桐島が写った指名手配犯のビラを全国に700万枚配ったらしいが、それでも見つけられなかった。だったらビラを電柱のいたるところに貼っておけばいいではないか。

近隣住民は驚いただろう。桐島がずっと近くにいたとは、宇宙人と遭遇するよりすごいと思う。

指名手配犯は西日本に逃亡する傾向があるという。福岡、大阪、広島、愛知と逃げる場所がいっぱいあるからだ。

田舎は人口が少なくかえって目立ってしまうので、首都圏で人の波に紛れた方が隠れやすいという。

桐島は広島出身なので西日本は避けたのかもしれない。

東京はいつ警察に遭遇するかわからないし人目も多い。港湾労働が盛んだった川崎市に逃亡し、藤沢市に移り住み、勤務先からは生い立ちを詮索されず、住み込みで働くことができ、安定した暮らしができたのでそのまま居続けたのだろう。海の近くを選んだのも、海が好きだったのかもしれない。名前に「洋」と名付けるぐらいだから。

警察は桐島を単なる極左のテロリストとしてではなく、性格とか人物像をもっと把握すべきだっただろう。

“極左は3人ぐらいのグループで行動して、安いアパートをアジトにして、隣人に怪しまれぬよう毎朝決まった時間に出勤し、決まった時間に帰宅する、ドアをときどき開けたり閉めたりして外出しているふりをしている、音を立てずに爆弾を製造している”とかマニュアルに頼りすぎてないか。宇賀神なんか赤いふんどしで堂々と海水浴していたそうだぞ。そういうキャラも手配犯にはいるんだよ。

というつつ私も会社経営している非公然活動家にでも匿われていると思っていた。そうすれば隠れて生活できるし、保険証や身分証など借りて医療機関を受診できると思っていた。

しかし桐島は誰の支援も受けずずっと一人で生活していたという。孤立無援だった。東アジア反日武装戦線の支援組織とは一度も面識がなかったようだ。

足が付かないように、家族とも学生時代の友人とも一切連絡をとらなかった。慎重で用心深い性格だ。

身分証も保険証もない苦しい逃亡生活だったと思う。よく70歳まで生きてきたと思う。ひっそりと忍んで生きていたと思ったが、わりと堂々と生活をしていたことが明らかになった。

 

 

2010年頃の桐島氏

 

“愛されキャラとして地元では「うっちー」、「うーやん」などと呼ばれ慕われていた。”

行きつけのバーでライブがあると「イエイイエイイエイ!」と盛り上げていた。

1999年オープン当時から地元の藤沢市の駅に近いバーに通い、常連となった。2000年前後にはバー主催の恒例のバーベキューにも参加していた。

仲間と一緒に酒を酌み交わし「うっちー」、「うーやん」などと呼ばれ慕われていた。多いときは週に1、2回バーを訪れて、4軒ほどはしごして、べろべろになるまで飲んでいた。

酒乱が原因で地元のバーを何軒も出禁になっていた。

酒乱気味で暴言を吐いたり、知らないお客さんに向かって「バーカ」と悪態をついたりするので、店では酒を4杯までしか飲ませなかった。

10年ぐらい前、よく酔っぱらって帰宅して、大音量ラジオと爆音ギターで騒音トラブルになり、警察に通報された。

隣人の80歳男性が「よく酔っぱらって帰って夜中12時ぐらいにラジオぎゃんぎゃんかけて、ギターを弾いてたよ、下手なギターを。あいつ歌も歌うんだもん。角材を窓に投げて怒鳴りつけてやった」と話していた。

20年ほど前に20歳年下の結婚を視野に入れた女性がいた。バーの店主に「告白した方がいいかな」と相談した。「独身なんだから楽しみなよ」とアドバイスされたが、「どうせ自分なんて」みたいな感じで、半年後「言えなかった」と失恋している。恋愛には奥手だったようだ。

10年ほど前には30歳ぐらいの別の女性から交際をアプローチされたが「自分は人を幸せにできるタイプじゃない」と言って断った。

根が真面目で誠実だったようだ。

結婚したい、子供がほしいと言っていた。

仲間とバンドを組んでボーカルを担当し、レイチャールズの曲を披露していた。

バーの店主は「うーやんから話しかけてくれるんだけどぼそぼそっと喋るので聞き取れないことが多かった」と話していた。

バーの店主が冗談を言うとにこやかに笑ってくれた。

バーで流れている曲に合わせて歌ったり、踊ったりしていた。

バーのライブで最前列に近い場所で歌い手に向かって「○○さーん、いいよー!いいよー!」と連呼していた。

酔うと相手を「おぬし」と呼んでいた。

バーでどこかの国の話になり「あいつらパーだから」と罵り、「それぐらいにしておきなよ、うーやん。人種差別になるよ」となだめられ、「おぬしに俺の何がわかるんだ!」と激昂して帰ってしまった。

人種の話になるとグワーッとなった。

横浜までブルースのライブに行っていた。

仲間と新潟や長野にスキーに行っていた。

仲間とバーベキューに行っていた。

反体制的な映画を好み、熱く語っていた。

一番好きな映画は「カッコーの巣の上で」。

周囲には実家は魚屋で5~6人兄弟の末っ子、出身は広島に限りなく近い岡山と話していた。

携帯を持たないのかという問いに「いらない。テレパシーでどうにかなる」と話していた。

バーの従業員によると「歯が全然ないから豚の角煮とかめちゃくちゃ柔らかいものしか食べれないんですよ」。

柔らかい煮物などを好んで食べていた。

銭湯にはジャージやスウェット、リュックを背負ってほぼ毎日通っていた。銭湯の店長によると20年ぐらい前から来ていて、体をひねるなどの運動をしていて健康的な人だった、「今日は暑いね」とか「寒いね」とか話しかけてきてくれて気さくで感じのいい人だったという。よく一緒に湯船につかっていた人は「あいつとは静かに話せる仲だったんだ」という。

きれい好きで一度来た服は必ず洗濯していた。

45年来の知人は「いつも楽しそうだった。逃げている感じはしなかった」などの情報がメディアの取材で明らかになった。

 

逃亡犯でありながら人生を謳歌しているような桐島に対してネット上では「犯罪やってない俺より人生謳歌していて涙」、「犯罪やってないってところだけは桐島に勝ってる」などのコメントが。

 一方で、「うーやんにはやさしいところがたくさんあった」と行きつけのバーの店主が話している。

体調が悪い仲間のために薬を買ってきてあげたり、仲間がバンドを組んでおり「今度ライブさせてやってくれ」とバーの店主に頼んだり、店主の誕生日には段ボールいっぱいの古着をプレゼントしたり、3メートルのカヌーをプレゼントしたり、行きつけのバーでベントがあるときは空き缶40個に砂利を入れてマラカスのようなものを作ってバーに持って行ったりしていた、人の悪口は言わなかったという。自宅付近の道路を無償で舗装したり、もともと善人だったのだろう。

社交性があり、やさしく愛されキャラだった桐島。

バーで踊る姿や、仲間に囲まれて満面の笑みを浮かべる写真を見ると、人生を謳歌しているように見えて、因果応報なんてないのかもしれないと思ってしまう。何十年もたつと自分が手配犯であるという自覚が薄くなるものなのだろうか。事件も風化し、平穏な生活を送っていたのだろう。

 

 2019年末から新型コロナウィルスが流行したことが桐島に大きな打撃を与えたと私は思う。コロナ禍で銭湯にも行きつけのバーにも姿を見せなくなった。人とのつながりが絶えた。一人で家にいると色々考える時間が増える。そうした状況で自分の過去をどのように振り返っていたのか。

特に末期の胃がんと申告され、亡くなるまでの1年は過酷だ。死と向き合い、がんののたうち回るような痛みに耐え、故郷や家族のことが浮かび、寂寥感に襲われただろう。

 

今年1月上旬午後3時半、桐島が体調が悪化し路上にうずくまっていたところを助け、家まで運んだという61歳の会社員男性によると、

「(この通り沿いに倒れていた?)この自販機のところに」

「喋るのがやっとやっとな感じだった」

「(部屋の広さは?)あって六畳ね。乱雑な感じで、どういう風に寝泊りしているのかなという。ストーブとかも2個ぐらいあって」

「(桐島容疑者の)あの写真の3分の2ぐらいガリガリにするとあんな感じになるかな」

「80歳近くに見えた。眼鏡をかけていた」

「(指名手配の写真を見て)クリッとした目が似ていると思った」

普段の印象は「笑顔は弱々しく物寂しそうだった」という。

会えばニコッと笑いかけてきて「こんにちは」とあいさつすると返してくれたという。

 61歳会社員男性と一緒に桐島を介抱した50代男性によると、桐島は工務店近くの自販機の前に正座をするような格好で倒れていて、近くには嘔吐した跡があった。「胃の癌でうまく話せないんだ」と言った。どうしても近くのスーパーマーケットに行くと言った。単語をつなぐような感じで話していた。ガリガリ君のソーダ味とマスクメロン、箱のティッシュを欲しがったので、50代の男性夫婦が「その体では無理だ、私たちが買ってきます」と言った。桐島が2つ折りの財布からお金を出そうとしたがその手を止めて、奥さんが買いに行った。財布は紙幣で膨らんでいたという。

 61歳会社員男性が「どこに住んでいるの?」と聞くと自宅の方を指さして、50歳男性と一緒に家まで連れて行ってあげた。

歩けないような状態で引きずられるような感じだったという。

ドアには南京錠がかけられていた。カギを開けてあげて、座る場所がないほど散らかっていたので、物をどかして座らせてあげたという。

6畳ほどの板の間だったという。勤務先の工務店の社長に伝え、その場を去ったが、従業員らが騒然としているので、50歳男性が様子を見に行くと、桐島が首を傾け、従業員らの呼びかけに反応しなかったという。50歳夫婦が救急車を呼び、桐島は救急搬送された。

 

 1月14日、鎌倉市の病院に「内田洋」として入院。診察券の生年月日は1952年9月1日となっていた。持ち物はバッグとタンブラー、ボールペン、診療明細書だけだった。

 

25日「自分は桐島聡」だと病院関係者に名乗り出るまで何を思い、考えていたのだろうか。(自分から名乗り出たからよかったが、そうでなければ永遠に行方がわからないままだっただろう。)

 

最後に名乗り出たのは「承認欲求」、「警察への勝利宣言」、「自己顕示欲が浅ましい」などという人がいる。

私はそうは思わない。最後は本当の自分で死にたいというのは、人間の根源的な欲求だと思う。

「俺は最後だから捕まえてくれ」という言葉は、事件への懺悔だと私は思った。

このまま死んだら偽りの人生で終わる。自分の正義よりも、最後は人として正しく生きることを選んだ。

最後まで逃げ切ったとか公安の敗北とか、そんなことはどうでもよかったと思う。

 

捜査関係者によると桐島は手配写真より痩せこけて髪は薄めだったという。背格好など身体的特徴が手配書と一致していた。

韓国産業経済爆破事件については「知らない」と否定する一方、間組爆破事件については関与をほのめかしていたという。

任意の事情聴取にて、事件について「後悔しているか」との問いに「はい」と答えていた。ああ、良心があったのだ!と思った。

事情聴取の最中、意識が遠のくこともあり、27日には危篤状態に。十分な聴取ができないまま、29日の午前7時半に桐島は死亡した。

最後の日々も黒縁の眼鏡をかけ続けていたという。

本人確定される前に亡くなってしまったので、本名で死にたいという願いは潰えた。

2月2日にDNA鑑定で「親族関係に矛盾なし」と結果が出て、家宅捜索が始まった。東アジア反日武装戦線の教本「腹腹時計」は見つからなかったという。そりゃそうだろう。

2月7日に神奈川県逗子市の斎場で身元不明者として火葬された。

2月27日、事情聴取にて桐島本人しか知りえないことを話していたこと、DNA鑑定の結果により、桐島聡を名乗る人物が桐島本人であると特定され、容疑者死亡のまま書類送検された。

桐島には前科がなく、指紋もDNAも残っていなかったために本人特定まで時間がかかった。

3月21日、不起訴処分となった。

 

 

高校のクラスメートの話によると、桐島は自分から人を引っ張っていくタイプではなく、人についていく(追いかける)タイプ、影響されやすタイプだったという。大人しいというかノンポリでふつうの生徒だったという。

大学1年の夏休みに広島に帰省したときは特に変化は見られなかったという。

大学2年の頃、山谷の越年資金闘争に関わって影響されてしまったのだろう。

桐島が好んだ「カッコーの巣の上で」という映画は、彼の世界観を表していたと思う。主人公はオレゴン州立精神病院に連れられてきて、その病院は絶対権限を持って君臨する婦長に運営され、患者たちは無気力な人間にされていた。さまざまな手段で病院側に反抗しようとする主人公に患者たちも心を少しずつ取り戻し始め、脱走を計画し始めるという内容だ。

「カッコーの巣の上で」のように、桐島は非民主的(独裁的)な権力者に対し、反対・対抗・抵抗し、民主化・自由化・解放を獲得することが人生の目的であり、彼なりに戦い続け、逃亡していたたのだろうと私は思った。50年前から時が止まっていたんだなと思う。

 

三菱重工爆破事件で死者8名を出した「狼」のリーダーの大道寺将司は死刑囚となり、病死するまでずっと被害者に対して謝罪の気持ちを持ち続けた。大道寺は小さい頃から病弱でいじめられていたという。中学の頃、アイヌ民族の生徒がおり、差別を受けていたのが許せなかったという。

私も小中学校、7年間いじめにあった。クラスだけではなく学年中から嫌われていた。親は「やられたらやり返せ」の一点張りで、仕方なく学校に行き続けた。だがそのおかげで今は、やられたらガンガンやり返している。私も大道寺のように、差別がどんなに辛いかよくわかる。腹の底からマグマのような怒りを感じる。しかしだからと言って爆弾テロには参加しないだろう。

正義のために犯罪やっていいわけがない。正義は清く正しいものだと思うが。

 

60年代、70年代の日本ではテロが起きてもおかしくない世相だったのかもしれない。しかし自分をしっかりもっていれば不正をせず、道を外れずコツコツ努力して政治家にでもなって世の中を正しい方へ導いていくのではないだろうか。桐島は好青年で、正義感は強かったと思うが地に足が付いてなく、周囲から影響を受けやすく、東アジア反日武装戦線に引き込まれてしまったのだろうと思う。

 

桐島が事件について後悔していたのは、正義だと思ってやった企業爆破だったが、結果的に社会の悪になるようなことをし、取り返しの過ちをしてしまったことだと思う。若い頃に狂った歯車はけして元に戻ることはなかった。

犯した罪は大きすぎて、もう逃げるしかなかったのかもしれない。

 

だが死をもって本当の正しさを取り戻して自首したのだろうと思う。

事情聴取されているときの桐島は憑き物が落ちたように穏やかだったという。

 

友人に慕われ、愛されキャラだった桐島。

晩年は寂しく孤独だったと思うが、誰にも知られずに死ぬよりは自販機の前で倒れていたところを偶然助けられてよかったと思う。

49年間、誰にも言えず闇を抱えて生きてきたことは辛かったね、苦しかったねと言ってあげたい。

人によって受け取り方は様々だが、思った通りのことを書かせていただきました。

 

桐島が亡くなって、49日がとっくに過ぎた。長年住んでいたあの木造2階建ての寮も、いつかは取り壊されてしまうのか。

「僕は内田洋のまま死んでほしかった。桐島聡だったら弔えないよ」と友人は話していた。私はそれが一番悲しい。確かに被害者の方のことを考えたら弔えないだろう。しかし友情までは捨てないでいただきたい。

 

くどいですが、桐島は三菱重工爆破事件には関与していません。彼が関与したのは鹿島建設資材置き場、間組本社ビル6階、間組江戸川作業所爆破で死者は出ていません。ただ重傷を負った方はいらっしゃいます。幸い一命を取り留めたようです。企業(旧財閥、大手ゼネコン)をねらって爆破したが、意図せず人を巻き込んでしまったというのが事実だったと思います。ネット上では人殺しのように呼ぶ人がいますが、それもどうなんでしょうか。心が痛みます。

 

桐島さん、お疲れさまでした。特に最後はよく頑張ったと思います。どうか安らかにお眠りください。ご冥福をお祈りいたします。仲間やバーのマスターたちのことを見守っていてあげてください。

合掌。

 

桐島はジェームス・ブラウンが好きだったという。

本名:ジェームス・ジョセフ・ブラウン・ジュニアJames Joseph Brown, Jr(1933年5月3日 - 2006年12月25日) 作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、レコード・レーベル・オーナー、社会事業家。ファンク、ブルース、ゴスペル音楽、R&B、ソウルなどの音楽性を持ち、アフリカ系アメリカ人で長きにわたり一般的な人気を博した。


サウスキャロナイナ州バーンウェル生まれ。幼い頃、とても貧しくて母親が家を出て行ってしまい、父親と祖母に育てられ、ジェームス・ブラウンも家計のために幼いころから働いてお金を稼いでいたとか。幼いころから歌が上手だったようです。

16歳で盗みの罪で少年院に入る。そこで、ゴスペルグループを作り、有名になる。真面目な態度が評価され出所。後、ボビー・バードとゴスペル・グループ、スワニーズを結成。フレイムス→フェイマス・フレイムスと名前を変更。南部の各都市でライブを行い、ついに、キング・レコードとの契約を締結。「プリーズ・プリーズ・プリーズ」で56年にデビュー。

1960年代末から1970年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「Get On Up」「リッキン・スティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」などがある。

今回は日本で有名な「Get On Up」を紹介いたします。

 

 

80年代後半には妻に対する脅迫行為等の件で執行猶予付きの有罪となり、アーティスト活動を停止。
しばらくは、ライブ盤や、自己プロデュース作などをリリース。本格的メジャー復帰は98年の『アイム・バック』。02年リリースの『ネクスト・ステップ』が最後の作品となった。

 

大分端折ってご紹介しましたが、今度改めてジェームス・ブラウンについてもっとくわしく紹介させていただきます。

桐島さん、ジェームス・ブラウンさんお元気で!