やっと色々な規制が緩んできたのと同時にこちらミシガンでは本格的な初夏がやってきて、晴れてカラッとした気持ちのいい季節がやってきました。
BBQやパーティーのお誘いも増えて、向こう一月くらいは週末がすでに埋まっています。
数ヶ月ぶりに家族以外の人と会うようになって、今までは気がつかなかったのですが、ふと思ったことがあります。
それは、人を「危険」かもしれない、という視線でみてしまう、ということ。
つまり、この目の前の人が感染していることもある、という視点を持ってしまった。
人は本来、人と繋がりたい欲求があるのに、コロナの影響で、他の人を危険かもしれない、と見てしまう。。。。
これって、意外とストレスになっているんじゃないかと気がついたんです。
頭や心ではハッキリとは認識できていなくても、身体が反応しているんじゃないか?と。
私には6歳の娘がいるんですけれど、この感覚を娘には学校を通して持って欲しくないな、と思うんです。
どういうことかというと、例えば9月に学校が再開して、マスクの着用、ソーシャルディスタンス、検温などを課してくる場合、自ずと周りの同級生はウィルスを持っているかもしれない、という前提で人付き合いを子供たちはするんじゃないかと思うんですよね。
私は娘にそういう視点で他の子供たち(子供に限らず全ての人)を見て欲しくない。
手を繋いではいけない、おもちゃを共用してはいけないなど。
本来の子供の遊び方から遠く離れた、自然に反するルールを課すことで失うものの方が圧倒的に多いと感じるからです。
生きるってなんでしょう?
あらゆるリスクを避けて暮らすのは、生きてることになりますか?
私の大好きな映画「マグノリアの花たち」の中にリスクを冒して妊娠、出産を決めたジュリアローバーツが妊娠を喜べないでいる母親に言ったセリフ「 I would rather have thirty minutes of wonderful... than life time of nothing special.」というのがあります。
つまり何もリスクのない平々凡々とした長い人生よりも、心から生きている感動を持てる短い人生を選ぶ、ということですよね。
私個人としては彼女の生き方に共感できます。
これは平々凡々と生きるのが良くないとか間違っている、というのではなく、あなたはどちらを選択して生きるのか、ということ。
どちらを選択してもいい、自分が選択したのと違う生き方を選んだ人たちも否定せず、ただ違うということを認識すればいい。
そして自分と同じ価値観を持つ家族や友人と思うように生きて、[私の人生面白かった、生き切った]と言えるように暮らしたい。
今までにない時代を生きている私たち。
今この稀有な時代の流れの中で、自分のスタンスはどこにあるのか。何を自分は大切にして生きていきたいのか。
子供達に何を伝えたいのか、ということを意識して暮らしていこう、と感じている今日この頃です。