統一教会内に残っている、30年以上通っている方の中に、私的財産を持ちながらすべてを捧げたと言い切っている方が多いことを知っています。

 それは心の割礼であると自己正当化して、万一統一が間違っていた場合子供に財産を残そうとしている家庭を幾つか知っています。

 これは公職者の家庭ではなく、所謂勤労壮年だと言うことは特筆するべきことだと思います。

 若き頃、私的な財産もそれ程ないときに路上で声をかけられて、献身までしちゃった方々にはとんでもない信仰姿勢かもしれませんが、僕が客観的に統一の流れを見ましたときには。壮年たちが居なかったら間違いなくオウムのようなもっと大きく人の命を脅かす組織になっていたと思います。

 ただオウムと違うのは、国会議員に食い込んでいたと言うことと。勤労壮年が良い意味においても悪い意味においてもストッパーになったと思っています。

 これは祝福面でも、だいぶ悔しい思いをされた方も居ました。

 経済でも献身者に負けない貢献をしているのに、どうして?と。

 自分の考えが正しいと思っていても、歴史が経たないとわからない場合があります。

 僕のこの内容も、もしかしたらと言うことはあると思います。

 ただしかし。

 僕は統一教会が文の言葉に著作権を設けた、兄弟姉妹を裁判で訴えるようになった。

 この2000年頃からの動きで失望していました。

 疑問を持ったのはもっと前ですけれどね。

 神様が日本の法律で裁かれる。

 もちろん日本の法を遵守した伝道を行っては欲しいのですけれどもね。

 元同じ釜の飯を喰った兄弟姉妹を裁判で

 拉致問題でも、自分たちの教えの方法運営などを改めずに、拉致をした側を問題視する姿にも飽き飽きしていましたけれどね。

 聖書の著作権について⇒ http://www.bible.or.jp/read/read10.html

 「人を裁くな、そうすれば自分も裁かれることはない。人を断罪するな、そうすれば自分も断罪されることはない。人を赦せ、そうすれば自分も赦される。人に与えよ、そうすれば自分にも与えられる」(ルカ福音書六・三七~三八)

 イエスはこう言われています。

 裁きの権限はただ神にあるのではないでしょうか?

 終わりの日に神が下される内容を、どうして統一教会では人が兄弟姉妹に対して簡単にするのですか?

 もし聖書よりも、イエスのときよりも進み正しいことをしていると言うのなら、宗教法人の優遇を返上し、自ら多くの納税をするべきでしょう。

 今回そもそも申し上げたいことは

 裁くものは

 自分もさばかれ、あなたがたが量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」(マタイによる福音書7章2節;1954年改訂 口語訳聖書、日本聖書協会)

 こう言われています。

 統一協会の挙げたこぶしを降ろせないのなら、今までの献金を返金してもらう裁判をおこしてもいいのです。

 だって、教会では裁いてもいいよといっているのだから。

 原理プリンシブルと言うものは、科学的に神の証明を試みたものでしたね。それはひとつの方程式のようなものであって、誰が使っても同じ回答が出る。これが真理ではないのでしょうか?

 一部の方に都合よいものは、原理でも真理でも何でもありません。

 もし献金の返金を躊躇っている方が居るのなら、こう考えて下さい。

 彼らに悪なる運動を辞めるまでも行かなくても、遅らせるきっかけになるのでしたら。

 あなたの献金返還の訴えは、良心の叫び、神の声、正義なのです。



 もう神様を語りながら、神の道を踏み外した統一協会の暴走を止める方法は、

 あなたの献金返還の訴え、そして行動が大きな神の役事なのです。

 まずは鉄くず回収から神の国を夢見た頃に戻るように、公職者のすべては額に汗をしながら、労働の中から神体験を再度するべきです。

 いつでも最前線へ行く気概をなくし、家畜化した朝鮮人に侵食されている統一教会。

 これは、日本人の清貧や勤勉さを逆に教えてあげるべきだったところ、どうなんです?いま?

 もうわからなくなっているもの共に教えてあげることはひとつ

 貧しく成りなさい。

 そうして、地べたへ這い蹲り、つかんだ石や、雑草から神と出会うべきではないでしょうか??

 現役信者の方々へ

 彼らにとってよくない。

 もう献金をやる必要はないのです。

 逆に現在の公職者から倍返してもらう
 
 そう言う時代ではないでしょうか?