「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った。『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らを真ん中に立たせて言われた、『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。まただれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる』。」 (マタイ18:1-6)


 メシアは裁き主と言われていたりします。

 神へ人類をつなぐ道だとか言われています。

 ここに引用しました、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである

 って、こんにちの様子と照らし合わせて見ますと、如何に当時が荒んでいたのではないかと思うのです。

 子供がお漏らしをして泣いていると、こんにち親御さんを探したり、受付設備管理者に言って親を探してもらう、警察へ届けるなどしますよね?

 この姿は、誰かの名ゆえに行っている行動ではない、思いが先立った行動です。

 あるがままを受け入れている。自分の良心先走ってね。

 当時は、イエスが故に子供にも手を差し伸べよと言っている。

 もしかしたら、子供が働かされるようなスラム街だったのかな?とも思いました。

 身分差別もあったのかな?とも思いました。

 どうあれ裁き主イエスが、人類の良心向上の役割を成されたことは間違いないと思います。

 

 けれどもね。

 神は一部が滅ぶを善しとするなら違いますが、全人類を救いたいのでしたら、今でも

 わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである

 ではいけないのではないでしょうか?

 自身の思い先立って、艱難辛苦をも受け入れるものではないと。艱難辛苦汝を玉にすと言う言葉のようにね。

 なになには、御言葉だけれど、それは違う。

 そのような個がそこにあるうちは、きっとまだ子供なのだろうと思います。

 御言葉かそうかそうではないかは生きる上で関係が無い。

 自主的にその局面を肯定的に好転的に捕らえ回転展開させるかでしょう。

 愛と言う名のものとに




 もしそこに誰かの許諾が必要なら、それは神に出会えぬ人だろうと思う。