| 「父の魂」ではバット職人の息子がなぜか打撃でなく投球で活躍し、剛球で相手打者のバットを折り続け、最後は「やはり、折れないバットを作ろう」とバット職人に戻る強引な幕切れでした。
「巨人の星」で川上監督は飛雄馬に自分の現役時代の背番号16を与えましたが、こんなものをもらった飛雄馬は、投手としてどんなに頑張ってもエースナンバー18は永遠にもらえないと言い渡されたようなものでした。
川上哲治は王貞治と同様、投手から一塁手に轉向して打撃の神様になりました。
つまり、星飛雄馬は最初からピッチャーとしては長続きしないと決まっていたようなもので、打者としてデビューすればよかったと言えます。
ずっとあとになって野茂英雄が一時期、背番号16で活躍しましたが、これは他球団の例でした。
また、初めから投打の両刀使いだった番場蛮は死を恐れぬ武士道精神から背番号4を選び、原作では本当にマウンドで玉砕しました。
星飛雄馬が打者として巨人に復帰しようとしたときは、魔球の投げすぎで左腕を破壊したあと。
右腕投手として復帰した飛雄馬は長嶋監督から背番号3をもらいましたが、長嶋茂雄は元から三塁手で、飛雄馬の父・一徹も元三塁手。
もし、現実の世界であれば、一徹は初めから長嶋引退後を見据えて少年・飛雄馬を三塁手兼打者として鍛えていたでしょう。
結局、巨人の一軍に星飛雄馬あるいは番場蛮がいた当時、巨人でエースナンバー18をつけていた投手は一貫して堀内恒夫でした。
江川卓が入団した直後の1979年上半期、長嶋監督は星飛雄馬に対してコーチ就任要請という形で戦力外通告をしました。
誰も「三塁手・星飛雄馬」という選擇肢を考えなかったのが不思議です。
そして81年から藤田元司が巨人の監督になりました。
もし、星飛雄馬がもっとあとに生まれて、藤田監督または堀内監督の時代に巨人に入団していたら、成績次第では背番号18をもらえていた可能性があります。
星飛雄馬と番場蛮にとって、堀内はV9時代の先輩投手で、藤田元司も川上G時代に世話になったピッチングコーチでした。
飛雄馬も番場も元投手が監督だった時期に巨人に在籍しなかったのは、少し可哀相でした。元投手だった中尾二軍監督は飛雄馬に対し非常に冷淡でした。 |
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