祝・新潟明訓高校、夏の甲子園出場 2007/ 8/ 2 18:58 [ No.199 / 506 ]

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神奈川代表は桐光学園。

>大阪桐蔭の中田君残念! 2007/ 8/ 8 9:14 [ No.202 / 506 ]

大阪桐蔭は夏の甲子園で2連覇して、最後の夏に敗れたのですか?
残念でしょうが、対戦相手にとっては3年目で悲願を達成したと言えるでしょう。

「ドカベン」で言えば、不知火が白新高校時代に2年連続して明訓に負けて、3年目でやっと明訓に勝って甲子園に1回出て卒業するようなもので、もちろん、実際はそうなっていません。
「大甲子園」では不知火は高校3年夏でも甲子園に出られなかったわけです。それでも「大甲子園」での神奈川明訓VS白新の試合がアナウンサーから「事実上の全国大会の決勝」と評され、不知火は結果として日ハムに入ったのですから(ダルビッシュの先輩)、不知火は凄いものです。

「大甲子園」で南波高校が大阪代表になり、通天閣高校は敗れました。「ドカベン」の展開ではその前の2年は通天閣が大阪代表でした。そうなると、真田一球が巨人学園を率いて南波と対戦していたのはいつの大会でしょうか?

新潟明訓の岩“城” 2007/ 8/ 8 9:31 [ No.203 / 506 ]

インターネットでは漫画の「ドカベン」の岩鬼を「岩城」と書いているのが多いですね。
パソコンで「いわき」と打って「岩城」しか出ないせいでしょう。
私は「いわき」の読みで「岩鬼」を単語登録しました。

新潟明訓の岩城は「ドカベン」香川や「球道くん」こと中西清起(~きよおき)のように、漫画のキャラクターが「実写」で再現されたような感じですね。

新潟明訓vs花巻東 2007/ 8/10 18:24 [ No.209 / 506 ]

明訓の岩“城”もよく打ちますね。
明訓が五回表で先制点。

岩手の花巻と言えば「ドカベン」では太平監督の息子・洋投手の花巻高校がありました。

漢字の注釋
「大平(おおひら)監督」、「大平洋(おおひらひろし)」かと想いましたが、「大甲子園」の単行本を見たら明訓vs青田戦で里中がバントする場面で「太平監督」と描いてあります。息子も「太平洋(おおひらひろし)」でしょう。
海の名前としては「太平洋(たいへいよう<~やう)」と「大西洋」です。

岩手代表には75年に神奈川明訓を破った弁慶高校もありました。
花巻が甲子園に出たシーズンでは、あの弁慶も岩手県大会で敗れたのでしょう。

徳川監督は神奈川の明訓高校を率いていましたが、新潟明訓の同県の信濃川高校の監督でもありました。
新潟といえば「ウォッス10番」で描かれた富樫、日下部の新潟西高校も忘れられません。

ところで、室戸学習塾・犬飼知三郎の使った超対角線投法とマウンテン・ボールは、土佐嵐高校・番場蛮が巨人時代に開發したハラキリ・シュート及びハイジャンプ魔球とそれぞれ関係があるのでしょうか。
あるとしたら、高知県球児の傳統を感じるのですが。

甲府商業高校と堀内恒夫 2007/ 8/10 19:55 [ No.210 / 506 ]

甲府商業高校の夏の全国大会出場は1958年と1963年、そして今回、2007年で3度目、44年ぶりである。

堀内恒夫は1948年1月16日生まれなので学年では1947年度生まれになる。

1963年夏の大会当時は堀内は15歳、1年生として出場したが、この年は「第45回記念大会」で出場校が多く、堀内のいた学校は西宮で試合をしたらしい(2007年7月29日「スポーツ報知」)。

もっとも堀内はプロとして巨人×阪神戦で甲子園のマウンドに立ったことは何度もあるだろう。

「巨人の星」と「侍ジャイアンツ」で、星飛雄馬と番場蛮が巨人にいた時期(星は67~70年と76~79年、番場は70~74年)と二人ともいなかった1年間(西暦1975年)を合わせた12年間(67年~79年)、巨人軍でエースナンバー18をつけてマウンドに立っていたのは堀内であった。

自ら志願して背番号4をつけた「侍ジャイアンツ」の番場蛮は別にして、川上Gの投手が川上の現役時代の背番号16を受け継ぐ話は「ちかいの魔球」から「黒い秘密兵器」を経て「巨人の星」に受け継がれている。

しかし、背番号16をもらった飛雄馬たちは、言い換えれば「エースナンバー18は永遠にもらえない」と宣告されたようなものである。

例えば川上監督が星飛雄馬に背番号16を与え、長嶋茂雄が背番号3を与えたのは、「星は投手としては長続きしないから、早く打者に轉向しろ」という皮肉とも受け取れる。

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