8月の天竜区
例年ならば各地で夏祭り
屋台の曳き回しが行われる季節ですが、
残念ながら今年はCOVID19対策で屋台行事は中止となってしまいました。
全国には12000基を超える山・鉾・屋台があると云われていますが、
そのうちの一割を大きく超える台数の屋台が静岡県の遠州地方で曳き回されています。
浜松市だけで500台超。
浜北区、天竜区にもそれぞれ100台を超える屋台が存在しています。
( ・`ω・´)💡
屋台行事というのは、元々
京の都の祇園祭(山・鉾)
飛騨高山(屋台)
関の山
秩父の鉾、屋台
世良田の屋台
神田の鉾、屋台
佐原の幣台
など、商業的に成功した土地で曳かれていました。
貧しい地域の祭典では
神楽舞いや、
担ぎ万度がせいぜいで…
“関の山”と謳われた豪華な曳き山、屋台を曳き回せるのは一部の限られた土地でした。
遠州地方でも、
新居宿
掛塚湊
といった金持ちの宿場や湊は、江戸時代中期には豪華な屋台を曳いていましたが、
貧しい浜松宿は屋台を作るお金はありませんでした😰
浜松宿は参勤交代の大名を接待する金銭負担の確保が出来ず窮乏し、
山間部で比較的裕福であった
二俣以北36ヶ村に
接待費負担の協力を申し入れます。
江戸時代、平野の水田耕作民はしっかり検地され年貢をガッツリ取られましたが、
山間部は元々、米の生産性が低く、検地も厳しくなかったため、
茶やタバコの換金作物、鞋や和紙などの生産、養蚕などを営み、二俣市場で換金して税金を金納していました。
😰だからいくらでも、納税額を誤魔化せたようです。
本来、平地で曳くはずの屋台ですが…
山、坂の多い天竜区
何故、昔から曳き回されているかといえば、
😰金が余っていたからです。
明治時代の近代化も、
水力や、森林資源を必要としたので、
山間部から近代化が始まり、地方の平野部は取り残されていたのです❗
戦前の天竜区には、
二俣町、犬居町、浦川町、水窪町など4つの豊かな商業地域がありましたが、
浜北区や南区は全て村でした😢
大正時代に二俣町や光明村山東では、画像のような立派な
二俣型一層唐破風大屋台を有していました。
二俣諏訪神社祭典では十台の大屋台が曳き回されており、
遠州鉄道に乗って全国から観光客が訪れていました。
8月20日が
二俣郷社椎ヶ脇神社祭典が行われ、
奉納煙火である鹿島の花火は、当時は日本一と謳われており、戦後間もなくまでは
🎆日本三大花火🎇
に数えられていました。
8月21日から三日間
全て一流の宮大工の手による
総漆塗唐破風一層大屋台十台が神事である神輿渡御に巡行し、
芸妓衆や女子が華やかに三味の音を響かせながら手踊りなどで盛り上げる十数台の花屋台が街に繰り出し、
大名行列などの大がかりな仮装や芝居などの余興が賑やかに、夜を徹して行われていたのです。
昭和30~40年代になると、日本各地でコストのかかる屋台行事は縮小傾向となり、
豪華絢爛な四日間にわたる二俣まつりも
昭和43年には
鹿島の花火が切り離され
二俣諏訪神社祭典の連合屋台行事も二日間に短縮され、
日本一の祭りは、
地元ローカルのマイナーな祭りに変貌していきました。
同時に、二俣という町の
商業地域としての命運も尽きてしまいました😢
凧揚げ競技会を細々やっていた浜松では、大正頃から遠州鉄道で見物に行っていた二俣の祭りを真似て、小さな屋台を凧揚げ会場まで曳いていくようになりました。
浜松旭町と二俣町を結ぶ遠州鉄道は、
磐田中泉と二俣町を結ぶ光明電鉄との
競争に打ち勝ちました❗
遠州の中心は磐田から浜松に移り、
浜松は大正から昭和初期に一気に経済発展を遂げたのです。
昭和五年に浜松にも
最初の本格的な
浜松型一層唐破風大屋台が作られ
(浜松型、二俣型ともに掛塚型一層唐破風本舞台とは仕様が異なり、三河や南関東の屋台との共通性が見られます)
昭和六年には、
秩父の笠鉾の影響も感じられる
浜松型重層入母屋造御殿屋台が浜松市の大工三嶽駒吉によって初めて建造されました。
浜松型屋台は、浜松の宮大工三嶽駒吉が創建したオリジナルであり、
掛塚式とは根本から異なるのですが、
そうした事実は何故か
浜松まつりの歴史から抹消されています。
屋台行事のストーリーは、地域が栄えた歴史を物語ってくれます。
屋台行事を追えば地域の歴史は全てわかるのです😌
西浦田楽や
懐山おくない
を追いかけていたのではわからない…
本物の地域の歴史、文化、伝統技法が
屋台を見ればわかるのです。