その1からの続きです☆ →その1
ゲーム「Undertale」のネタバレがありますのでご注意ください☆
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『もしも私たちが「争いの歴史」を繰り返してきたとしたら・・もし私たちが、何度も何度も同じ世界を体験しているとしたら・・』
「同じところを回っている」・・そういったループネタはよくお話にも使われますよね。
実は、私たちは普段からこれをやっているんです笑 マジか?(二回目)
この世界が私たちの「意識」から、すべてが作られているとしたら。
この世界を「コンピューター」に例えるなら、私たちの「意識」とは「プログラム」であり、それはつまり、プログラムした本人が認識した通りのことを、まさに「ループ」のように永遠に同じ景色を経験するという仕組みなんです。 What?笑
例えば私たちの意識の中に「みんな嫌いだ!」というプログラムがあるとすると、それをファミコンで言うなれば、私たちのアタマに「みんな大嫌いだランド2」というゲームソフトが差し込まれているような状態なんです。笑
要するに、たとえ自分の周りに「みんなを少しだけ愛すランド1」とか「ちょっと譲歩するランド3」が存在していたとしても、それらの別プログラムを自発的に取り込んで意識のアップロードをしない限り、私たちがどこに行っても、誰と話そうとも、その「大嫌いランド2」のストーリーをずっと繰り返していくことになるんですね。
たとえ彼氏とディズニーランドへ行こうが笑、あるいはママ友とおしゃべりに付き合おうが、自身の中にその「大嫌い」というソフトが組み込まれていたら、どこへ行っても何をしていても、周りの欠点や自分のダメなところが見えて嫌になる流れになっているんです。(この場合は自己嫌悪という拡張パックが付いています笑 嫌ですね〜笑)
そうやって「同じソフト」でずっと遊んでいる限り、たとえ見えている場面が変わろうとも、私たちはそのプログラム通りのことをひたすら感じるようにできているんですね。それが「マイバーチャル」というものです。
さらに、これに加えて私たちが今まで「輪廻転生」をしていたとしたらどうでしょう?笑
そうだとしたら、これまで私たちはまるで地面に棒をつけて回るように、「似たような場所」や「似たような体験」、そして「似たような人間関係」の中を繰り返しグルグル回っていたのかもしれませんね。
そうやってそれぞれが「自らの意識の中」で世界を作り出しているということは、私たちは同じ場所にいながら、全く別のことを経験しているということなんです。
例えば世の中には大きく分けて明るい人と暗い人、ポジティブな人とネガティブな人がいますが、それは自分に組み込んでいるプログラムがそれぞれ全く違うからです。
その人が「自らを苦しめるプログラム」を入れていれば、どこへ行っても苦しみを感じます。
しかし逆に「自分を救うプログラム」を持っていれば、どこへ行っても希望を受け取ることになります。
その意識の違いこそが「波動」であり、ある意味実にシンプルな仕組みですね。
つまり、私たちはすべてを自由に「任されて」いるのです。
私たちは、何を選んでもいい。苦しみを繰り返すことも、愛を繰り返すことも、その創造の権利ははじめから、私たちの「意識」という手元に渡されています。
であるならば、私たちが望むままを常に宇宙は実現してくれているのであるなら、私たちがすることは「一つ」です。
ー「自分はどんな世界を望んでいるのか?」
それを、「決意」し続けるのです。
そうした人間の持つ意識や魂の力、そして輪廻転生までテーマにしているかは分かりませんが笑、「これまでのゲームとは全く違うゲーム」それがトビーフォックスさんがほぼ一人で作った「Undertale」という作品です☆
はじめはインディーズゲームとして開発したのですが世界中に人気が出て、今は任天堂でもプレイできる「誰も死ななくていいやさしいRPG」です。
前回ご紹介した「東方project」にトビーさんが影響されたこともあって「相手の攻撃を避けながら受容する」システムは同じなのですが、さらに、この作品は相手を倒さなくても済むゲームなんです。
そこが大きなポイントであり、これまでの「戦う、奪う」という要素を含んだゲームの「終着点」を迎えたな、ついにゲームもここまで来たなと私はちょっと感動したんです。
このようなタイプの作品が現れて、それに触れられた。それは、私の過去の波動の軌跡をたどるようでとても嬉しいことでした。
そしてとにかく泣けるんですねこれが笑 有名なゲームなのでYouTubeでも色んな人が実況していますが、結末を見るたびに泣いちゃうんです笑
どうしてこのゲームが多くの人の心に響くのか?
それは、人の心の「光と闇」つまり「魂」そのものをテーマにしているからではないかと思います。
まずこの作品のあらすじは「人間とモンスターのいる世界で、人間である主人公はとある山に登り、そこにあった穴から人間がかつて封印したモンスターの世界へ落ちてしまう」という、そういうお話です。
ふつうここでプレイヤーがプレイをして思うのは「人間=光」「モンスター=闇」という図式ですよね。
だから主人公はモンスター達を倒してクリアすれば良いのだと。そう思って初見でプレイする方は、道の途中で出会う彼らを倒して「経験値」を得ていくわけです。
でもそうして歩いた先の街に出てみると、そこにあるバーで常連のモンスター達がたむろする中、なぜか空欄の席があるんです。あるいは完全に閑散とした店内を見た方もいるかもしれません。
そこで気づく人は気づくんですね。自分はモンスターを「倒した」のではなく「殺した」ということに。
そう、これはただのゲームではないんです。
一見、モンスター達を怖そうにデザインしているところが何ともいやらしいところですね。笑
でも、彼らは怖そうだけれど、よく観察すると実は人間と同じソウルをもった人間味のある存在なんです。むしろ人間よりも個性を持っているのではと思うくらいです。
そうなんです。「そうした自分と同じようなハートを持つ存在と対峙した時、あなたはどうしますか?」というのが、トビーさんが作り出した「Undertale」なんです。ちょっと恐ろしいでしょう?笑
つまりこれはもう、ゲームではないんですね笑
私たちがゲームをしているのではなく、私たち「プレイヤー」の「ハート」を、ゲーム側から観察されている。試されている。そういう作品なのです。
そうして一周目で「何かおかしい」と思ったプレイヤーは笑、二周目になって「今度は相手を傷つけないぞ!」という決意をして進めていきます。
一周目ではひたすら「たたかう」コマンドで攻撃して相手から経験値を奪ってきたんですが、今度は「こうどう」というコマンドを使って相手と「和合」をし、もう一つのコマンドである「みのがす(MERCY)」が使えるようにと「模索」をしていきます。つまり一周目とは全く違うプレイの仕方をしていくんですね。
そうして主人公は「誰かを傷つけたエンディング」から、「誰も傷つけなかったエンディング」にたどり着きます。
出会うモンスターの一人一人に対して「たたかい」ではなく「こうどう」を選択し、彼らのすべてを受け入れていった(許していった)んですね。
「このモンスターは今、私が何をしてあげたら仲良くなってくれるんだろう?うまくいくんだろう?」
と粘り強く、相手とではなく自分と戦ったのです。
しかし恐ろしいことにこの「Undertale」には「すべてを殺すエンディング」も存在していて、しかもそちらに行かなければ分からない「物語の真実」というのも用意されているのです。
なんとも奥の深い作品ですが、「光から闇まで選ぶことができる」私たちの持つ「ハート」の自由さ、そして可能性を教えてくれている気がするのです。
そして「誰も傷つけない未来」にたどりついたすべてのモンスター達は、そこへ導いたプレイヤーに向かってウインクをして、こう言うかもしれません。
「みのがして(許して)くれて、ありがとう」と。
今もこれからも、私たちは「決意」を抱き続けることができます。
どんな環境にいようと、私たちは私たちの意識の中で、「葛藤」と共に「希望」を持つことができます。
どうしてそんなことが可能なのか?それは、私たちに「想像力」があるからです。
もしかしたら、心配性な人は母性が溢れているのかもしれないし、怠惰な人はあなたにとって頼りになるリアリストかもしれない。
それは、知ろうとしなければ分からないんです。
落ち着きがない人は退屈を思い出させないかもしれないし、傍若無人な人は付き合ってみたら面白い性格かもしれない。
もしかしたら多くの発見があるかもしれないんです。
臆病な人は誰よりも繊細なのかもしれないし、強情な人は、本当は優しい人なのかもしれないし、世界を嫌う人は、もしかしたら誰よりも世界に希望を抱いているのかもしれない・・
私たちには「かもしれない」という力がある。
私たちは「こうどう」をすることができる。
私たちは「たたかう」というコマンドをやめることができる。
私たちは「誰も傷つけないエンディング」に向けて歩こうと意識を再編成することができる。
私たちは「決意」を抱き続けることができる。
私たちは何をすることもできる。あなたを笑わせることも、困らせることも、喜ばせることも、悲しませることも。