今度の連休のテレビ番組をチェックしていたら・・・
なんと、自分が「ディレクターとして、初めて世に送った番組」の再放送があることが分かりました。
10月10日(日)
BS-TBSにて 14時半からの
「浪漫紀行・地球の贈り物 ~インド洋のフランス・レユニオン島~」
http://www.bs-tbs.co.jp/app/program_details/index/KDT0601500
1994年の番組。
そうかあ、16年前なんですね。20代半ばの頃です。
どんな上がりだったかなあ。久々にみるのが少しこわいです。
その1年前まで私は、番組制作会社で社員をしていました。アシスタントディレクターと、取材ディレクターは経験していたが、丸きり一本の番組の演出をしたことがありませんでした。
そして辞職。社内の不公平をたくさん見て、もうそれ以上そこにいたくないという理由でやめたのですが、その日から「一本の番組まるごとの演出」の仕事が舞い込むまで1年かかりました。
会社をやめて、フリーランスで番組ディレクターをやっていこうと決心したものの、なかなか「一本も作ったことのない者」に番組を預けてくれるプロダクションはありませんでした。
舞い込んできたのは取材ディレクターとして他人の番組の部分取材の仕事ばかり。他に通訳や翻訳で食いつないでいました。
この番組も、最初は演出をするディレクターとして依頼を受けたのではなく、フランス領のアフリカでの取材だったため、アフリカ慣れしたフランス語のできる通訳を探していて、私の名前が挙がったのがきっかけでした。
ディレクターは誰ですか、と聞いた時に、実はまだ決まっていないと聞かされ、「なんとか、通訳兼ディレクターでチャンスを与えてほしい」と製作プロダクションにお願いしたのです。そしてTBSのこの番組担当のプロデューサーが私の名前を聞いて、大丈夫だと太鼓判を押してくれたおかげで初仕事になったのでした。このプロデューサーが過去に抱えていた1時間のゴールデンタイムのドキュメンタリー番組で、私はアシスタントディレクターを務めていたのですが、その頃の仕事ぶりを評価してくれての後押しだったそうです。今でも感謝しています。
さて、大きな問題が起きました。番組製作を預かったのと同時に、父が癌と宣告されました。医者はクリスマスまで持たないと言いました。私のアフリカ取材は2週間で帰国が12月26日だったのです。
つらい決心、つらい日々。
でも父は1月1日まで生きてくれました。数日、私と再会するために行きぬいてくれたのです。
放送は1月の後半。
初めての番組。すべての決断をするのがディレクター。
葬儀も終わった頃に番組に音楽を入れる日が来ました。
音楽の選曲をするスタッフに、私はあるお願いをしていました。
いつもやるように、彼のセンスで番組のいろんなシーンにふさわしいと思う音楽を用意するというセレクションを一つ。
そしてもうひとつ試しに用意してほしいとお願いしたのでした。
父は画家でした。彼は多くの作品に虹を描き込んでいました。
私は小さい頃からアトリエで虹を絵に入れていく父の姿を見るのが大好きでした。
そこで、「OVER THE RAINBOW」の曲をメインテーマにして、番組の音楽構想を練ってほしいと頼んだのです。仕事を二倍にさせてしまったのですが、選曲担当者は理由を聞いて快く私のわがままに応じてくれました。
そしてスタジオで二つのバージョンを映像とナレーションに充てて、
聞き比べしたのです。
何も知らない関係者たちまで全員が、OVER THE RAINBOWバージョンに惚れ、みんな一致し、そちらが採用されました。
今年で父が亡くなって15年。
不器用な作りの番組かもしれない。
緊張と心配と苦しみと悲しみと感謝などごちゃごちゃまざった感情が
嵐のように心を乱していた時の処女作。
今、自分がママになってから見るなんて・・・自分でどう見るのかな。
あの時、協力してくれた多くの方々に感謝したい。
そして最高のファンキーパパ、そして最高の愛で包んでくれたパパ、
そしてその半年前に亡くなっていた大好きなママに
言いつくせないほどの感謝を感じています。
この番組は評価され、その後この番組がなくなるまで何本も作らせてもらえました。
余りにもの信用で、今ではあり得ない、「1行企画書」でもOKが出て、アフリカの取材をたくさん任されてもらい、ディレクターとしての経験を重ねることができました。
幸せ者です。
今回の放送、穏やか気持ちで見てみたいです。
できるかな?