あけましておめでとうございます。
今年もキチガイクソババアのブログを
ぜひともよろしくお願いします。
さて。
こちら↑の続き。
「わたしの欲しいものは無駄なもの」
「無駄なものは必要のないもの」
として生きてきた、と
認識してガッカリ。
そして
「お金を得る」ことに対しての思い込みは
「苦労して、労働して、疲れるくらいにヘトヘトになるくらいの労働力を差し出してやっと得られるもの」
なのだった。
だから人様のお金
(ダンナさんの、とか親の、とか)
を自分のために使わせることは、
申し訳ないことであり罪であると
思い込んでいることに気がついた。
ヘトヘトになって稼いでくれたお金、
申し訳なくて使えないよね…
過去からの自分の行動を振り返ると
・大人になるまでは
親のお金をなるべく使わせないように、
・結婚しても
わたしだけが欲しいものがあっても
旦那さんの稼ぎには手を出さないように。
だって
わたしのことでお金を使わせるのは
罪だから…
オー、ナンテコッタイ。
そしてこの、
申し訳なさと、罪の気持ちは
わたしなりの拙い愛情表現と
未消化の感情だったのだ。
☆わたしが欲しがれば
両親は自分のことを我慢して
わたしに譲ってくれるかもしれない。
あとでしこたま文句も言うてくるやろけど
旦那さんも自分のことを我慢して
わたしに譲ってくれるかもしれない。
と勝手に思ったわけなのだ。
我慢してるかどうかは分からないのにね。
☆なんで与えることや譲ることが
我慢の上に成り立っていて
譲ることが辛いという思い込みなのかは
わたしが我慢して譲ってきたから、でもある。
親や旦那さんに
そんな辛い思いはさせたくない。
との思いで
「わたしの望みは無駄」
「無駄なものは必要ない」
と思い込んだってことだ。
さて。
ここまで掘ってみて
これからも
自分に犠牲的なお金の使い方をしたいか?
欲しいものがあっても自分に我慢をさせたいか?
これからも諦めるの?譲り続けるの?
と問うてみたけど、NO。
一瞬、
わたしにそんなお金をかける価値はあるのか?
とは思ったけど、
それだけの価値を自分に見出す生き方がしたいのか?
そんな価値はないという前提で生きていきたいのか?
と問いただすと、後者はNO、だった。
これからは
キチガイクソババアならぬ
ゴーヨククソババア
でもいいんちゃう?
ってか、実はゴーヨクなんでしょう。
と思う。
☆死ぬ時に後悔しないように、
やりたいことや欲しいものを
自分の本当に望むものなら
それを失敗しながらでも
もがきながらでも
人に頭をさげながらでも
自分にやらせてやる。
持ってきてやりたい。
って強く思った新年でした。