メロン記念日の歴史をノートに書いていくと、ほぼメロン初心者だった5年前とは違って、「赤いフリージア」「This is 運命」という2つの点じゃすまないくらいの大きなメロンのブームがあったことがわかります。

 

 

CD(シングル、アルバム)のヒット情勢を中心に見れば、2002年、2003年、2004年の3年間に、メロンの勢いをみることができます。

 

前回の記事で書いた5thシングル「さぁ!恋人になろう」(オリコン20位)の後、2004年の13thシングル「シャンパンの恋」までのシングルは以下の通り。

 

 

6th 夏の夜はデインジャー!(2002年6月19日、オリコン14位)

7th 香水(2002年10月23日、オリコン12位)

8th 赤いフリージア(2003年1月29日、オリコン10位)

9th チャンス of LOVE(2003年5月8日、オリコン10位)

10th MI DA RA 摩天楼(2003年9月10日、オリコン15位)

11th かわいい彼(2003年12月3日、オリコン14位)

12th 涙の太陽(2004年6月9日、オリコン15位)

13th シャンパンの恋(2004年10月27日、オリコン25位)

 

 

この8曲は、どれもメロディの引き出しの多い優れた曲ばかりです。

 

いや、提灯記事を書いているわけでなく(笑)、

この1か月間、動画とCDで聴いて、すごいなーと感心していたのです本当に。

 

「さぁ!恋人になろう」の次が「赤いフリージア」というイメージだったのですが、

夏の夜はデインジャー!」は、このシングルで初めて野外での撮影でストーリー性を持たせた4人の姿、楽曲も安定してよくできているなあと思います。

香水」は、それに続いてヒット志向の、ダンサブルで明るく切ない曲(タイトルが歌謡曲ふうで地味なのが、どうしてこういうタイトルにしたのかなと少し思います・・・)。

 

なお、2002年10月に、リーダーが村田さんから斉藤さんに交替。

 

リーダーをどういう状況でどういう人に任せるかは難しく最も重要な問題なのだろうなと想像します。

私自身の過去を思い出したり、

最近応援しているアイドルグループで私の推しがリーダーだったのに交替になったんですよ、そういうことも思い出したりしてですね( ̄  ̄;

何と声をかけてあげてよいやら、変にとらわれても逆に良くないと思うし。

 

ともかく、この2002年のうちに12月9日~19日、単独ファーストコンサートが実現していますね。

 

そして、ついに、年が明けて、メロン記念日の最大のヒット曲の誕生です。

赤いフリージア」。

一般の人が合わせやすいテンポとリズム、ここまで数曲のシングルで前面に出ていた柴田さんがここでもメインで歌っています。

この大ヒットまでの成功の道のりが、柴田中心のフォーメーションに託されていたのでは、と思うくらいに3人がバックに回ることに徹しています。

(ただし、解散ライブのDVDを観ても、その後、4人の歌割りがはっきりできていたことがわかります)

1コーラス目が終わった後、間奏が入らずそのまま2コーラス目に入るあたり、ヒットする決め手ではないでしょうか。

少なくとも、あ、この曲いいね!と思わせる要素の一つです。

ファンだけでなく、一般に響くものを持っている曲は、やはり売れるのだと思います。

 

 

歌詞も、明るい曲調なのに、切ない。こういうのは気持ちを引きつけるのです。

 

ただ、私は個人的に、バックに聞こえる”ヘイホー!”は要らないんですよ(笑)

当時の、ヒップホップ、ラップのポップスへの浸透が、いかにもアイドルの楽曲らしく反映されているなあと思います。

後に出てくる「お願い魅惑のターゲット マンゴープリンMix」も然り。

あのメジャーヴァージョンはあまり好きじゃありません。

 

さて、それはそうと、「赤いフリージア」は、柴田中心とはいえ、4人の個性が発揮され調和した楽曲で、

そのヒットの勢いのもと、3月8日~23日、単独ライブツアー。

3月12日にリリースされた、初のオリジナルアルバム『1st Anniversary』のタイトルを冠したツアーが実現しました。

 

その後、2003年はこれで終わりどころか、さらに3つのシングルがどれも、ヒットするだけある良曲であり、

それに合わせて、MVでは、大谷さんがショートボブな髪になり、村田さんは眼鏡かけてダンスするのが魅力的で、

かわいい彼」では、MVで初めて、4人のセリフが聞けるのがうれしかったり、

服装も色々で、充実度を増してきますね。

なお、この3曲のうち、「かわいい彼」だけは、解散ライブでも、2018年ハロ!フェスでも演奏されました。

 

2003年は、メロン記念日の単独ライブがさらに、8月9日~22日、12月13~14日にも開催。

ライブも充実し、さらには、9月、翌2004年3月・6月のハロプロ並びにメロンの写真集が出ていたようです。

 

そして、2004年は、優れたカバー曲「涙の太陽」、聴けばクセになる、よき中毒性の高い曲がヒット。

後のベスト盤『MEGA-MELON』には、新曲として「GIVE ME UP」のカバーが収録されますが、その曲もオリジナリティが加わった面白いカバーです。

 

 

MV「涙の太陽」から「シャンパンの恋」にかけて、大谷さんのヘアスタイルが良くなっていきます。

4人にも楽曲にも、洗練された安定感を覚えます。

単独ライブのほうは、2004年も、3月6月8月12月と、本当にライブが増えているのがわかります。

12月1日には、オリジナル2ndアルバム『THE二枚目』リリース。

2003年までの勢いそのままに或いは、ライブの本数が増えたという意味では、さらに加速したよい1年だったのではと感じました。

 

僕が、ノートにメロンの歴史を整理していて、大きな疑問がわいたのは、ここからです。

 

2005年2月のシングル(つんくさん最後のメロン作品)の後、CD音源のリリースは、2006年インディーズシングルとなり、メジャーシングルは、2007年3月の「アンフォゲッタブル」まで、急に間隔が開くのです。

ここで何があったのか?

しかも、今からふりかえってのことですが、

この2005年までで、メロンの歴史はちょうど半分なのであり、折り返し点にいるにすぎないということです。

 

第4回でそれを探していくことにします。が、容易なことではないなーと想像しています。

 

 

 

最後に、この時期、2002年後半から、2004年までの私自身を思い出すと、

失業状態でどん底に落ちて、2003年暮れから、ようやく仕事を見つけ、2004年には、工場に勤務して、お金のほうはだいぶ楽になるのですが、自分の中では、経済的に救われたのを機に、自分の新しい目標に向けて準備を始めたい気持ちが高まり、行動に出ます。

2005年からのメロン記念日の変化には、メンバーたちの新しい目標が生まれていたのか、葛藤があったのか。

 

いや、無理に自分となぞらえるのは、おかしいですが、ともかく音楽というのは、その当時の自分を顧みる気持ちにさせてくれます。

 

では、そろそろ、パソコンも動作が悪くなってきたので、

今日は、ここまでにします。

おやすみなさい・・・。

 

 

メロン記念日第4回につづく