ご無沙汰しています。

 

10月になっていました。今週になって、金木犀(キンモクセイ)の香りに気づきました。

ようやく例年のような、秋の深まりゆく時の大切なものに気づかされました。

少しホッとしています。

 

 

実は、先月下旬から今月前半にかけて、

 

自分の部屋のCDを次々に処分していました。

処分といっても、買取サービスを利用して売却し、そのお金で生活をつないでいたわけです。

ここ数か月、わが暮らしは明らかに赤字続きでしたから。

 

それで何十枚というCDを”ああ、これはもういいな””これは、今後いつになっても結局、聴かないだろうな”などといろいろ考えて、自分の思い入れがなくなっているものを、思い切って手放してきています。

そのほとんどが、このブログで紹介して感想を書いたCDです。

 

でも、2015年、具体的には、2017年ごろからのものが多いですが、

僕の中で明らかに、価値観が変わってきているために、

聴いても感動しなくなっているCDたちなのです。

 

たぶん、およそ物の処分や断捨離に必要な気構えと言うのは、

客観的な価値や相場うんぬんではなくて、

自分の気持ちが入るかどうか、で、つまり主観的な判断で、もっと言えば、そこに直感的な判断を加えて、

思い切ってさっと実行することなのだろう、と思います。

 

自分が大切だと思うものが、その時ごとに変化することで、

それは果たして、自分を大切にしていると言えるのか、という自分を引っ張る力が働くことに対して、

いやいや、そうでなく、

自分のその時の気持ちに素直になることこそ、自分を大切にしていることだと言えるのではないか、

実は自分自身も、自分にとって本当に大切なものが何なのか、

分かっているとは言い切れない。

目の前の状況を、これが自分だと思うことで、本当に大切なものを守っていると言えるのか、

むしろ言えないのではないか。

 

物を処分して、後でしまったと思っても、それはそれ。

また、新たに探し直せばいいのではないか。

そして何より、物は絶対ではない。

 

そういったことをあれこれ考えめぐらせながら、CDを処分して来たんです。

 

そして、この、部屋とCDケースがリセットされていく過程で、

部屋の掃除・整理がなされ、その過程で、

いろいろ積まれて下敷きになっている「般若心経」に再会しました。

1年間、唱えていなかったなと気づきました。

 

僕は宗教を信仰する人じゃありませんが、

実家では母親が毎朝、唱えているのです。

何というか、一日一日のルーティンのように、身が引きしまるような作業でした。

それをしなくなってから、

何かが失われて行って、本当の自分を守っているようで逆に粗末にしていたのかもしれません。

 

生活を立て直して、

今の自分が面白い、本当に聴きたい、聴いて本当に楽しいと感じられる音楽をレビューできる、

そういうブログに、私は、変えたい、と思うのであります。

 

では、また!

久しぶりのインタールードでした。

 

 

 

追記。

処分したCDは、ここ6~7年の間に入手したもので、

ジャンルは、クラシック、ジャズ、洋楽、ロック、ポップス、日本のポップス、特撮、・・・など多くの範囲にわたります。

私はきれいに保管しているので、

新品のようにきれいなものが多いです。それでも、査定の評価は時々、意外な内容もありますが、

おおむねいい評価を得ていると思っています。

自分がこだわっているとか、好きであるとか思っていたものが、

よくよく思い返すと、そうでもなかったりして、

CDを売りに出すというのは、自分を顧みるのに良い機会だと思います。

また集めなおす楽しみにもつながるでしょう。

 

もっとも、集めなおせるようなCD市場であってほしい、形ある音楽の楽しみが続く世の中であってほしいというのが、

願いとして先にありますが。