私は気を使うのが苦手だ。
ラーメンを友達と共に食べに行くと、水を用意してくれた。
私がラーメンのために外出すると、水を出さなかった。
私は細かいお金を出せなくて多めに払っていた分を返そうとした。
友は「お釣りは出さないでいいから車に乗せてもらったガソリン代にということにして」と言った。
会社で「仕事ではないけれども気を使って埃を拭いておいてくれ」と言われていた。
必ずしも言われなくてはできないわけではないが、
他人が困っているかは言われなくてはわからない方だ。
察するということが苦手だ。
何が不満なのか言わずに「察して」という女性と付き合ってしまったらすぐにふるだろう。無理だから。
私の母はまさにその察してほしい派のようで、一方父は察することができない人間。
母は家事を言われなくても勝手に察してやって行くし、家族がやりたいことがあれば先回りして準備してくれる。その代わり、自分が察するのだから察して行動してほしいというような態度なので、家族は皆困っていた。
やる必要のないことも勝手にやって無駄に行動して、その努力の報われを要求してくる
勝手に頼んでいないことを実行し、余計な努力をして勝手に擦り切れて、
今はうつ病になっている。
こんな人を見て「美しい愛」だとか思う人もいるかもしれないが、私には「こうはなるまい」という反面教師にしか見えない。
気を使うと、こういう末路が待っているようにしか見えない。
社会では気を使うことが大事らしいが、その結果こうなれということだろうか
それはそう言う相手の奴隷になれと言うことにしか聞こえない
だったら気なんて使わずに、誰かに嫌われても自分で自分のためにやることが賢明ではないだろうか
そう思ってしまうのである。
しかし社会で人のためにならなければ生活費は得られない。
極端に気の使いすぎが良くないと言うことかもしれない。
言われなくてもではなく、言って確認するぐらいはしないといけないのだろうか