私たちの3.11


あれから13年。
3.11は毎年、被災地を思い、被災された方々を思い、そして自分たちの防災意識を見直す日。

そこに加え、今年はどういうわけか、13年前の自分たちが何を思って、どんな風に過ごしていたのかを思い返していました。

2011.3.11
私は助産師国家試験を終え結果を待ちながら、パートで看護師として働いていました。4月からは助産師として地域母子周産期医療センターに就職することが決まっていました。

息子たちは4歳と3歳。保育園に通っていました。

地震があった時私は仕事中、息子たちは保育園の午後睡中。幸い、自宅-保育園-職場は自転車や徒歩でも行ける距離だったので、帰宅難民にはならずに済みました。

地震そのものも、もちろん怖かったし、余震もありました。もちろん、被災地の方々の恐怖や不安とは比べものになりませんが…。そして、心身に負った傷や、その後の生活における苦労も、被災地の方々と私たちでは全然違うのですが、被災地から離れたところに暮らす私たちには私たちの、「3.11」がありました。

地震の後、続く余震や計画停電の知らせ、節電協力にガソリンの不足…。テレビを点ければ地震と津波の映像ばかり。
息子たちが不安を感じるようになりました。

私自身も不安だったけれど、母親である私が息子達の前で不安を口にするわけにも行かず…。

4月になると私が新たな職場に移り、そこはバスと電車を乗り継ぐところでした。
どこかで災害があれば、現地に救護に行く施設でもあり、その様子が報道されたりもしていたので、長男は「また大きいの来たら、ママ帰って来ない?地震のとこ、行くの?」と聞いて来るようななりました。
実際は、新人の私がいきなり被災地に行くことはありませんが、職場では救護チームが組まれていて、2週間のスパンで救護に入っていました。
被災地の様子にショックを受けて、精神のバランスを崩すスタッフもいました。


当時の私はまだ離婚していなかったのですが、基本夫はいなかったので、経済面を除いては、今と変わらず母子家庭。

助産師なのに、オペ室配属だった私。オペ中に余震があることも珍しくなく、開腹・開胸直前に大きな揺れが来ると、オペ開始時刻が少し遅くなったりして、残業になる日もあったり…。
慣れない職場。お迎えが延長ギリギリになる日も少なくなく。

色々が重なり不安そうな息子たちの様子を見て、まずテレビを点けるのをやめました。計画停電地域には当たりませんでしたが、節電協力はすべきと思い、夜は早くに消灯。理由は節電だけど、息子たちには「寝る前のお楽しみ時間」と称して、薄明かりで絵本を読み聞かせたり、お話したりして過ごしました。キャンプみたくしたり、懐中電燈に色付きセロハンを被せて遊んだりもしました。

余震の揺れに対する対策がなかなかなくて悩んでいた時に、職場で心理に詳しい人とお話する機会があり、息子たちの年齢を伝えたら、「お母さんがいるから大丈夫❗って伝えて一緒にいてあげたら、それで大丈夫よ」と教えてくれました。

大人の私からしたら、「地震のこと何も知らない私がいたところで大丈夫なわけなし」、と思ってしまったけれど、まだ3つ4つの子どもには、母親の存在がすべてなのだと気づかされ、早速実践。

余震でテーブルの下に3人。「揺れてる!」という長男に「お母さんがいるから大丈夫よ❗」とそのまま言ってみたら、これが効果覿面❗たまたまうちの息子たちに響いただけかも?ですが。

そのうち私を真似て長男が、次男に言うようになりました。「ママがいるから大丈夫だって❗」と。ことばの発達がゆっくりだった次男にどこまで伝わったかわかりませんが…。

息子たちが落ち着くことで、母親である私も落ち着く。「お母さんがいるから大丈夫❗」。いつしかこれが息子たちと自分自身を落ち着かせる魔法のことばになりました。

心理発達段階的に、もう適齢期ではなくなってからも何かと言い続けました。「お母さんがいるから大丈夫❗」。シングルマザーになった私にたくさんの安心と勇気をくれたことば。

最近では「お母さんがいるから大丈夫❗」と言うと「いや、それは際どい。勢いだけで行くのは危険やぞ」などと息子たちの方が大人なコメントしたりして、大きくなったんだな、と感じます。
もう通用しないってわかったって、私は言い続けますよ?笑
「お母さんがいるから大丈夫❗」。

昨日はこのエピソードを思い返して眠りに就きました。災害なんて無いに越したことないけれど、災害により立ちはだかった恐怖や不安から得た強さが今も私を、私たち親子を支えています。

そんな成長した息子が、昨日作ってくれた晩ごはん。
生姜が効いていて美味しかった🫚❗
よって、昨夜はゴリラ食堂休業でしたよ?誰かが作ってくれた料理はとても美味しい🧡。
ありがとう。