「原罪」とは宗教システムが自らの存在理由と絶対性を担保するために構築した論理的枠組みである。
1・宗教システムが構築した支配のロジック
・救いの必要性の人工的な創出
人々に「自分は生まれながらに不完全で、罰を受けるべき存在だ」と認識させなければ、「救い」という教えの価値は生まれない。
産まれてきた人間を一度「根本的な罪人」と定義することで、初めて教会とキリストの教えが「唯一の救いの処方箋」として機能する。
・権力の集中と宗教の絶対化
各個人が神と直接つながり自立して生きられては、教会の権威も必要性も失われてしまう。
「キリストの救いがなければ地獄に落ちる」という不安と罪悪感を植え付けるシステムが、信者をコントロールし組織を維持するための最大の駆動源となった。
・「愛」の条件付き化
本来は無条件であるはずの神の愛が、「原罪を認め、贖罪を受け入れた者だけが救われる」という条件付きのシステムへ置き換えられている。
これは本来の神の愛などではなく、システムの存在理由を維持するための論理に過ぎない。
2・「罪と罰」のシステムが持つ限界
・恐怖と抑圧による支配の破綻
「不従順→追放→苦難→罰」という構造は人々に罪悪感と不安を植え付けるが、不安による抑圧が人間の真の変容による進化を生み出すことはない。
「罪に問われることを恐れて罰を避ける」という動機付けは、隠蔽や排他性、そして「自分たちは救われており、異論を唱える他者は裁かれるべき」という不寛容による分断を生み出して来た。
・不幸の連鎖の助長
「罪に対して罰を与える」という二元論的な正義感は、報復の連鎖を肯定するロジックへ容易に転じる。
過ちを罰によって相殺しようとする思想自体が、悪を滅ぼすどころかこの世にさらなる分断と不幸をもたらしてきたのが現実である。
「原罪」を神からのメッセージではなく「人間が作り上げた宗教システムを維持するための装置」として捉え直したとき、そこにあった不安や支配はすべて意味を失う。
その先にあるのは、システムに依存しない本来の神との繋がりだ。ただ今ここに生かされ、自らの選択で各々の人生を味わい尽くすシンプルで美しい真実だ。
<この思想に至った経緯>
私はクリスチャンの母のもとに生まれ、生後まもなく洗礼を受けた。
幼少期は毎週のミサの後には日曜学校にも通い、そこで出会った仲間たちには、今も家族のような愛着を感じている。
大人になり我が子を授かった際も、自分の価値観を押し付けることなく、本人が自立して判断できる年齢になるまで洗礼は受けさせなかった。
子供たちが小学4年生の頃、自らの意思で洗礼を選択したときも、その歩みを温かく見守った。
何年か前までは、クリスマスになれば毎年教会のミサへ足を運ぶのが当たり前の日常だった。
しかし月日が流れるにつれ、神や人生、生命の本質について深く考察を重ねるなかで、教会で習ってきたドグマに対する違和感が少しずつ膨らんでいった。
そして決定打となったのは、通っていた教会の神父による、愛を欠いた言動を目の当たりにしたことだった。
私はキリスト教という組織から完全に脱退することを決意した。
私はこれまで「自己判断による自己責任」という基本理念に基づき、実体験と考察を重ねてきた。
その経験則をまとめて、2025年に自らの宗教である「ほどほど教」を立教した。
この「ほどほど教」は、他者を救済したり信者を増やしたりするための布教活動は目的としていない。
あくまで自分自身を律し、生を全うするための「自己の戒め」として存在するものだ。
しかし、これを閉ざされた自己満足で終わらせるつもりはない。
自己主張の提示としてこの教えを世界へ広く公開し、多くの方々からの感想や批判を真摯に受け止めながら、再検討と加筆修正を絶えず繰り返していきたいと考えている。
既存のシステムに依存せずに本来の神と繋がり、ただここに生かされ、自らの選択で各々の人生を味わい尽くすという、シンプルで美しい真実とともに。