顔面が打てない! ボクサーとして決定的な欠陥を、試合のさなかに指摘されたジョー。段平の最後の賭も失敗に終わり、ジョーはタイガー尾崎にめった打ちにあう。

必死で反撃しようとするが、どうしてもボディーしか攻撃できない。かたや、タイガーはそれを承知で防御すればよいので、余裕綽々である。

ジョーはつぶやく

その無意識の本能ってやつは・・・おれの意志ではどうにもならねえことなのかよ、おっちゃん・・・

ばかなことをいうない。おれの体じゃねえかっ・・・・てめえの腕じゃねえかっ・・・

そして、必死で食い下がろうとするジョーは、とどめの一撃をくらう寸前でゴングに救われ、その直後にセコンドからタオルが舞い込んだ。

致命的な心の傷を治さなくてはならない、焦るジョーや段平の心を見透かしたように、他のジムの会長たちが、次の試合を申し込んでくる。なんとしてもやめさせたい段平の気持ちをよそに、ジョーは試合を受けてしまう。

そして次の試合がきてしまった。

段平はいう

人間には絶望的なピンチよりも、もっとたちの悪いピンチがある・・・

そいつは、なまじ偽物の希望のあるピンチってやつだ・・・

休息して、満を持する気にもなれず・・・あわれにも、今度こそ今度こそと無惨にあがき、あがけばあがくほど、底なしの泥沼にのめり込んでいく・・・

ジョーはめった打ち、セコンドでは西と段平がけんかをするしまつ。試合のさなか会場に気になる人物を目にしたジョー。どこかで見た外国人がいる。そう運命を変える男をみた。その隙をついて、強打をもらったジョーは思わず、無意識に相手の顔面に強烈な一撃を放った!さらにもう一撃・・・

その直後に、ジョーはリングで激しく嘔吐してしまったのだ。

 

無意識との葛藤が、リアルに描かれている。しかも少年誌に。がんばれば何とかなる、根性で乗り越えるのだという、漫画の世界を塗り替えるシーンだ。

どうしても乗り越えられない心の傷、その葛藤を無理に乗り越えようとすると、体が勝手に反応して、力が入らない。それを、はずみで乗り越えてしまうと、さらに強い身体反応がおそってくる。

人間の意志の力は、無意識の作用の前には、かくもはかないものなのだということだ。がんばってもどうにもならないことがあるということだ。

一度は、力石の亡霊を追い払って、戦うモチベーションを持ち直したかに見えたジョーも、無意識の力の前には手も足も出ないということだ。

梶原一騎の作品は、基本的に「滅びの美学」である。恵まれないものが、必死でがんばり、はい上がろうとするが、最後は滅びていく。ただし、その滅びは悲劇ではなく、そのようにしか生きられない人間のはかなさ、どうしようもない人間の現実を表現する。その夢のなさを、漫画の神様、手塚治虫は毛嫌いした。しかし、時代はそういう梶原の世界に親和性を感じた。時代だったのだな。

手塚治虫が表現したのは、時代に影響されない普遍的な人間であったのに対し、梶原の作品は同時代の苦悩を代弁してくれたわけだ。まあ、歌謡曲みたいなものだな。手塚治虫の作品はクラシックや、受け継がれる日本の美を歌った、童謡、学童唱歌みたいなものだ。そりゃあ、水と油だ。

どっちがどうということはない。受け手は、そのときの気分で、気分に合わせてどっちを読むか選択する。そのときの心境によって、手にする漫画は違うものだ。そのときの気分によって聞く音楽が違うように。

阿久悠がなくなった、梶原一騎は阿久悠に近いだろう。ただ梶原の才能は短い期間に枯渇してしまい、滅びてしまったのに対し、阿久悠の才能は死ぬまで持続した。すごいことだね。本当に惜しい人を亡くしました。阿久悠さんのご冥福をお祈りします。