
葉子に厳しい言葉を浴びせられても、ジョーのこころは行き場をうしない、歓楽街をさまよいつづけた。
そして、そこで見たのは、用心棒に落ちぶれたウルフ金串の姿だった。金の卵と将来を嘱望されていた、ウルフのアゴを砕き、再起不能にしたのはジョーである。用心棒仲間に、自分は紙一重で本当は勝っていた、もう一歩で世界チャンプになれたのに、ジョーという石っころにつまづいてしまったのだと、一生懸命話すウルフの話を気づかれないように、聞いているジョー。その姿に哀れみを感じていた。
そこに、ウルフにやられたヤクザが連れてきた用心棒、ゴロマキ権藤が現れる。自信満々でけんかを買ったウルフは、何でもありのゴロマキに簡単にやられてしまう。こともあろうに、ジョーに割られたアゴを再び砕かれたのだ。
それを見ていたジョーはたまらず、けんかの仲裁にはいる。これ以上ウルフに手を出したら俺が相手だと。下っ端のヤクザは、ジョーにけんかを売ろうとするが、権藤はすぐにそれをやめさせる。
「おめえらが10人束になってかかっても勝てる相手じゃねぇ」と。権藤は気づいていた、その男が矢吹ジョーだということを。
そして、自分は勝ち目のないけんかはしないという。ウルフには負ける気がしなかったというのだ。
「やつの目はくさっていやがった。過去の華やかな思い出を振り返ることしか知らねえつまらねえ目をしていやがった。あの目をみて、負けねえとふんだのさ」という。
ならば、はっきり勝てるとわかった相手をなぜ、あれほどまでにたたきのめす必要があったのかとジョーに問われ
「ああいうタイプの人間がきらいなんでね。昔の華やかなりし思い出話と愚痴しかいえねえようなクズは・・・」
そう言いかけたところでジョーの怒りが爆発した。
「もう一言でもウルフのことを口にしてみやがれ。ぶっ殺すぜ」と権藤に殴りかかった。
タフが自慢のけんか屋権藤がジョーのパンチの前にはひとたまりもなく崩れていった。そして、倒れ際につぶやく
「す・・すばらしい。みごとなパンチだ・・・ほ・・本物だよ・・・。ボ・・ボクサーのパンチってやつあ、こうでなくっちゃ・・・いけ・・・ねえ・・・」
人の本質は目に現れる。「目は口ほどにものをいう」という言葉があるように。
目に意志や情が現れる。目に現れるのは、心の方向性だ。前を見ているのか、後ろを見ているのか、迷っていて前も後ろも見えなくなっているのか。また現実を見ているのか、夢を見ているのか、現実のような夢を見ているのか、夢のような現実を見ているのか・・
我々はあるものをありのままに見ているわけではない。心がニュートラルな時は、ありのままの現実が見えるだろう。しかし、通常、普通に日常を生きている間は、絶え間なく何らかの判断をしている。そうすると、何が起こるか。「見たいものしか見ていない」のだ。いやそうじゃないという人もいるだろう。「見たいもの」というのは自分の意志ではなく、そのときの自分の心理状態を反映したフィルターのことだ。
恐怖にさらされ、身の危険を感じているとしよう。すると、見えるものはすべて危険なものに見える。外から入ってくる情報が皆、危険なものかもしれないと思う。実は目の前には、自分の周りにはいつもと同じ情景があるだけだ。しかし、心が危険を感じれば、そのように感じるということだ。危険なものを見たいわけがない。だから見たいものを見ているのではないといいたいだろう。しかし、意志では見たくないと思っていても、おびえた無意識は過剰な防衛反応のため、物事の関連する危険な可能性の方を見つけようとする。
たとえば、車が走っている。それは普通に走っている車以外の何物でもない。しかし、恐怖にさいなまれていれば、その車がこっちにつっこんでくるように見えるということだ。
心は無意識に、いろいろなフィルターがかかっているわけだ。それは過敏であったり鈍感であったりする。そのフィルターは、過去や未来への捕らわれ、今の感情、過去の経験など様々なものに影響されている。だから、我々は同じものを見ているようなきがするが、実は何一つ同じものは見ていないわけだ。見えているものは同じだが、それにまとわりつくイメージが異なるのだ。
自分では何気ないつもりでも、自分が見ている目に、自分のすべてが反映されている。「目を見ればわかる」というのも、言い過ぎではない。正確に目を見ることができれば、その人の背景が透けて見えるだろう。しかし、その目を見ている自分の目もまた自分というフィルターがかかっていることを忘れてはいけない。