力石徹 VS. 矢吹ジョー バンタム級8回戦。

ついに宿命の対決のゴングはなった。予想通り、大振りのアッパーだけを連続して繰り出してくる力石。いくらかわされても、手を休めることはない。作戦を変えることもない。ジョーは得意の両手ぶらり戦法でアッパーをかわして、スキをついてストレートを放ち、ヒットする。

しかし、第一ラウンドが終わり、セコンドに戻ったジョーはいう

「この試合俺にはわりがわるいぜ」確かに、傍目から見れば力石はあたりもしない大振りアッパーが空を切り、ジョーのストレートがヒットしていた。

「確実にヒットするといってもさ、スウェーバックしてのけぞった体勢からやっとことどくパンチだぜ。あれじゃ、ポイントにはなるかもしれないが、腰のはいらねぇ当てるだけのパンチだからハエ一匹殺せやしねえよ。

この場に及んで贅沢いえる柄じゃねえが、点取り虫で判定に逃げるなんざ、けったくそ悪いし、第一力石のこった、やつから8ラウンドの長丁場を逃げ切れるとは思えねえ。」

段平もいう

「ハエも殺せない当てるだけのパンチ・・・か。図星だな。それに引き替え力石の方は8ラウンドに一発きまれば、それが決定打となる強力が必殺アッパーカット。確かに割のいい話じゃねえ・・・・」

ジョーはいう

「いまさらじたばたあわてたってしょうがねえ。このまま打ったりかわしたりしているうちに・・・野生の本能とやらが解決してくれるだろう。そいつを待つしかないさ」

 

ジョーは成長した。がむしゃらに向かっていって、打たれたら打ち返す、やられたら倍にしてお返しする。そうしているうちに何とかなる・・そうやって生きてきたのは少年院までの時代だ。

今やジョーは、無鉄砲で闇雲な人間ではなくなっていた。己の限界をしり、相手の力を認め、現実を冷静に見られるようになっていた。恐れを知った人間は、もはや無茶なことはできない。

小さい子供が、時に驚くような大胆なことをする。それは恐れをしらないからだ。暴走族、チンピラの人たちが無茶をできるのは、現実を冷静にみることをしないからだ。子供と同じで、大問題に直面するまで、その大胆さは続いていく。

けんかはそれでいいだろう。けんかはためらいのない方が勝つに決まっている。後先を考えない方が強いに決まっている。守るものがある、恐れをしっている人間は無茶なことはできない。そのためらいがあるから、けんかはやる前から勝負が決まっている。

口げんかも同じだ、相手の気持ちを考えない方が勝つ、勝つに決まっている。

だから、けんかに勝つことは重要ではないのだ。勝ったからえらいわけではない、より強いわけではない。より子供っぽい事を証明しているだけなのである。馬鹿ですと宣言しているようなものだ。

ボクシングはけんかではない。ルールがある。ルールの中で、己と相手との能力を競い合う。実力差が歴然としていれば、ライオンがうさぎをしとめるように、理屈抜きに勝てるだろう。

しかし、実力が拮抗していればどうなるか。もはや、そこにはがむしゃら、無鉄砲は通用しない。冷静さ、集中力、勇気・・それら、人間にとってより高度な能力が試されることになる。我を見失しなえば、あるいは集中力がとぎれれば、あるいはここ一番に打って出る勇気がなければ、勝つことはできない。まさに人間力の勝負になる。一切の言い訳が通用しない。自分が丸裸にされ、そこに示された結果が、掛け値なしの自分としてさらされる。恐ろしいことだ。

言い訳の余地なく、そのままの自分をさらされるほど人にとって恐ろしいことはない。どこかで逃げ道、言い訳を用意しておきたくなるものだ。しかし、真剣勝負では、そのスキが命取りになる。

すべてを捨てて、自分をさらけ出さなければ、勝利をつかむ入り口にも立てない。しかし、ひとたびそこに立てば、あるのは完全なる勝ちと負けだけである。

力が拮抗した人間対人間の真剣勝負とはそういうものなのだ。

ジョーは自分を信じ、リングに立ち続ける道を選んだ。自分の限界をしり、恐れをしりながら、なおかつ前に進むことを真の勇気と呼ぶ。真の勝利は勇気の代償としてしか手に入らない。