いよいよ力石とジョーの試合の日がきた。

控え室で、段平は筋肉をほぐしてやるというが、ジョーは必要ないとほえる。

「おれの筋肉は特製だから試合が近づいたくらいで、固くなるような安物とはわけがちがうんだい!」

しかし段平は見抜いている

「でけえ口をたたきやがって・・・てめえでさわってみるがいい。筋も肉もカチカチにこわばっているぞいっ。今まで何度か試合をやってきたが・・これまでのおめえには見られなかった現象だ!」と。

「なんだったこうまで固くなってやがるんだ。何をおびえているんだ。いまさら力石とグローブを交えるのが怖くなったんかい!」

その言葉に怒るジョー、しかし、段平は冷静だ。

「まあ、わめくな!何はともあれ、ここまでおめえを緊張させてるのは・・・おそらく・・おめで独特の野生の本能ってやつだろう。本能ってやつは恐ろしいもんで、往々にしてズバリ何かを予言することがある。」

 

「身体は正直だ」、よく耳にした言葉だ。自分の考えはだませても、身体はだませない。考えは、現実とはかけ離れていても、自由に変えることができる。イメージ、想像・・どんなに自分に都合がよい話でも、どのようにも考えられるはずだ。しかし、現実にはそうはいかない。なぜなら、それをじゃまする何かがあるからだ。

「俺は空を飛べる!」そう言い聞かせたとて、実行に移そうとは思わない。身体が知っているからだ、どうしようもなく、重力で自分を大地に釘付けにしている力を身体は意識しようがしよまいが、しっかり感じ取っている。

重力への体感は、もともといやが上にも備わっているものだが、情動体験、つまり「恐れ、不安、怯え、無力」などに伴う身体感覚は、元々備わった感受性と生きてくる過程での経験とのからみあいで作られ、身体に埋め込まれていく。

客観的に評価すればできることであっても、自分の中に失敗体験、恐怖感、不安感が潜んでいると、実際にはできないことが多い。

やっかいなことに、これらの身体感覚は自分の思考より高速に、いわば反射的に発動し、それが思考をも縛り付ける。そういった身体感覚を客観的に評価し、より現実的な行動をとるための判断ができる力を「内省力」という。

そして、そういった心と身体のコミュニケーションがスムーズで、困難だが思い切って行動する場合や、できそうだがやめておいた方がよい場合などを柔軟に対処していける力が健康な力と言える。

そういう柔軟性がないと、できる可能性があることを乗り越えることができず可能性を狭めてしまったり、やめた方がよいことにむきになってぶつかって傷ついたりすることになる。ただ、人生は試行錯誤だ。いや試行錯誤の中でしか、何一つ学び身につけることはできない。大事なことは、成功からも失敗からもできるだけ多くのことを学び取ろうとする姿勢である。

 

ジョーは、あまり頭がよくないが、野生のカンが優れているという設定だ。頭が良くないと言うより学校に行っていないので、知識がないだけだ。カンがよいというのは、頭がよいということだ。ジョーは頭で、知識で考えることはしないが、身体で覚えたり、身体で感じることから学んでいく。そして、人としても成長していく。

あしたのジョーは、ただのチンピラだったジョーが、拳闘という一つの道を中心に、揺れ動きながらも、ひたすらその道に進んでいくことで、人として成長していく物語である。人が生きるうえで大切なことは、勉強とか知識とかではなく、またつまみ食いのような経験でもなく、一つ自分の信じる道を、ただひたすら進むこと、それだけだと思う。

一つの道を進もうとすれば、当然障害物がでてくる。思うようにいかないこともでてくる。敗北することもある。それでも、その道が好きな道であるから、それらの試練を乗り越えて、進み続けることができる。進み続けること自体が人生であり、成功とか、勝利とか、報酬とか、それらは結果であり、求めるものではないのだと思う。