ジョーより先に少年院を退院した西は、乾物屋で働かせてもらっていた。まともに働いたことのないジョーにも、西と同じ店で働けるように段平はお願いした。

乾物屋のオヤジは大の拳闘好きで、快く引き受けてくれた。

いざ、働こうとしても、働いたことのないジョーはへまばかりだ。年少あがりで、敬遠されてもしょうがないジョーをだが、乾物屋のオヤジもおかみさんも、何の偏見も遠慮もなくびしびし仕事をさせてくれる。

初めて乾物屋に行ったとき、ジョーが一番驚いたのは、乾物屋の娘のことだ。ジョーは思わず「葉子・・」と口にしてしまう。それほど、乾物屋の娘、紀子(のりちゃん)は葉子ににていた。あしたのジョーの物語の中では、ボクシングのことが当然メインであるが、その裏で、白木葉子、のりちゃん、ジョーの男と女の揺れる心がちらちらでてくる。しかし、今の漫画のようにそれが前面にでてくることはない。

ジョーは一日働いた帰り道、西にいった

「おれは、まあ、乾物屋ってガラじゃあないし、おまえみたいな立派な店員にはなれそうもねえけど

今日、生まれて初めて真面目に働いて・・・なんかこう、よかったよ・・

口じゃあ、うまくいえねえけどさ・・・

拳キチのいった、汗と涙で橋を逆にわたるってやつ・・・なんか実感としてやっていけそうな気がしてきたよ 」

 

実感としてわかる。これが本当にわかるということだ。分かるためには体を使わないと分からない。人が分かることを「腑に落ちる」というが、分かると言うことは身体感覚、内臓感覚全部でわかるということなのである。

分かったような気がするというのは「頭での理解」だ。そういうのは得てして、時間がたてば消えていってしまうものだ。しかし、実感として分かる、腑に落ちるというわかり方をした場合、時間がたっても消えることはない。それは知識ではなく、細胞に染み渡った感覚だからである。匂い、味もそうだ。よくお袋の味という言い方をするし、それだけではなく、昔食べたもの、飲んだもの、そしてその時感動した、うれしかった、あるいは逆にひどい目にあった、つらかったという味や匂いは、10年、20年ぶりに体験しても、あっあのときの・・と分かる。

それほどの記憶力があるのに、中学、高校の時にならった、数式、化学式なんかどうやっても思い出せない。知識と実感の違いだ。

何でも体で感じる、体で考える習慣が大切だ。不安、恐れ、期待、後悔、悔しさ、腹だち・・そういうものを感じながら体験したことは決して忘れることはない。たまたま感じたことではなく、その思いをかみしめながら実感したことという意味だが。

今や、生身の身体感覚で学習することが無くなってしまった。危ないからといって実際にはさせずに、シミュレーションで終わらせる、またバーチャルな世界の体験を実体験だと錯覚させる。それが、脳の発達をそこなっているのだと思う。

自分の器にあった理解、自分の体の限界の中で実感すたこと、それこそが自分にとっての本当の体験、自分の世界である。だから、世界は人によってみな異なるのが当たり前なのだ。それを、無味乾燥な同じ情報を人に与え仮装体験させる・・そんなことに何の意味があるのか。意味があるどころか、間違った学習をしてしまう。自分にできないこと、自分合っていないことまで、自分の世界に取り込んでしまい、自分の世界がゆがんでしまうではないか。

どんなささやかなことでもいい、どんなに無駄に見えても良い、自分の体と心で実感ながら得た物だけが大切なのだ。