ジョーと力石の死闘は、ダブルノックダウンで終わった。少年院第一回目のボクシング大会は、あまりにも壮絶な幕切れによって、終わってしまうのかと思われた。しかし、予想に反して展開されたのは、他の院生たちがこぞって、自主的にボクシングを始める姿だった。リングを囲んで盛り上がる院生たち。

それを見守る看守たちは、「まるでけんかじゃないか、まったく、めちゃめちゃ流けんかボクシングだ」と揶揄した。

しかし、白木葉子は気づいた。

「いつのまにか、みんなの間に、ちゃんとしたルールがきめられていますわっ。

社会の秩序を守らなかったために、この少年院に送られてきた収容生達の世界に、誰に押しつけられのでもない自主的な秩序が初めて生まれたんです。

それに激しい憎しみをたたきつけあいながらも、とにかく最後までルールのもとに戦い抜いた二人が教えたのだと思います。」

 

段平も同意する。

「限りなく流された血と数知れず繰り返されたダウンとを生け贄に偉大な感動を呼び起こし、その感動のもとに厳しい掟と秩序がみんなの腹の中にしみこんでいったんだ。」

 

言葉では教えられないことがある、本を読んでも伝わらないことがある。人が本当に理解するというのは、頭で理解するのではなく、体で理解するということだ。さまざまな感情を交えた体験、特に恐れ、不安、羞恥、嫉妬、屈辱など、できれば避けたいような感情を伴った体験だけが、本当の意味で人の血となり肉となる。体で覚えたことは忘れない。忘れるわけがない、記憶ではなく心身を巻き込んだ一つのプロセスを細胞が理解したのだから。

一度自転車に乗れるようになった人は、一生、自転車に乗れるといわれる。自転車だけではなく、数限りない一見些細な体験、習慣の積み重ねで今の自分が成立している。習うより慣れろ!という言葉がある。記憶したり頭で理解するのではなく、体が自動的に反応するように訓練するのだ。人にはそういう力が備わっている。

今や、小賢しい知識や記憶の断片、試験をクリアすればおしまいというような些末なことに能力を使わされている。気の毒なことだ。真の体験は、未知なる領域に全身全霊をかけて、ぶつかり、体の痛みと心の痛みを実感しながら、細胞で覚えていくことだ。その時必要なのは、そういった恐ろしいプロセスを、黙って見守ってくれる人の存在だ。その人は、ぎりぎりまで手出しせずに見守り、危ないと思ったら必ず助けてくれる。助けてくれる保証はないのだが、助けてくれると信じられる存在が必要なのだ。

自分の能力に見合った体験を、自分の能力を知った上で見守ってくれる支えの元で、積み重ねることができた人は幸福である。必ずしもそういった生き方ができるわけではない。こういった体験は、経済力も、学歴も、社会的地位も、なにも関係ない。魂と魂の関わりだから。だから、それはドヤ街の中でも、少年院の中でも起こりうることなのだ。逆に、恵まれた家庭で、有名学校にいったとて経験できるとは限らないことなのだ。

そういう意味で人は平等なのだ。見てくれは不平等でも、魂は平等なのだということを忘れてはいけない。