奇跡の魔球と思われた大リーグボール2号も、父一徹、宿命のライバル、左門、花形によって、徐々にベールがはがされていく。もはや、打たれるのは時間の問題かと思われた。一徹は、もはや大リーグボール2号に、秘密なしの状況を演出し、巨人軍が飛雄馬の親友であり、大リーグボール2号の秘密を握る伴を放出するようにし向けたのだ。

子供たちを集めて、星、伴、花形、左門のジョイントでの企画の場で、左門、花形は大リーグボールの秘密に限りなく迫っていることを告げる。飛雄馬は、伴が放出されないように、バッティング投手を買って出ることで、伴の特訓を許可してもらっていた。巨人軍はおそらく伴を放出するだろう、そうなれば、飛雄馬は敵チームの為に伴を鍛えていることになる。それでも、飛雄馬にはそうするしかなかった。

そこで花形は言う

「それは、報いられないかもしれぬ努力だ、むなしいかもしれぬ根性だ。しかし、本人は必死で打ち込む姿だ!」

左門は言う

「山の奥で、人に見られず、咲いて散っていった桜木も、花見客にたたえられた桜木も、その美しさにおいて変わることなかとです!」

花形は言う

「かりに、一人の投手がいる。その親友の打者がいる。投手は打者を一人前にしようと必死で、バッティング投手を務める・・・しかし、投手にとって親友の打者はやがて、敵に回る運命が決定している・・・こういう美しさに僕は涙するね」

 

少年たちはそれに答えて言う

「努力って、根性って、それを十倍したから十倍もうかるってものじゃないんだね。貯金じゃないんだね。」「だからこそ、底抜けに美しいのよ!」

 

頑張れば報われる、だから頑張るんだ・・それはそれでよいだろう。努力は裏切らない・・そういう言葉もよくきく。

しかし、現実はどうだろう。どんなに努力したとて、思うような結果にならないことはある、いや、その方が多いかも知れない。

頑張れば報われるというのは、裏を返せば、報われる保証があるから頑張るという話になるかもしれない。もっと言えば、報われないようなことならしない、ということになりかねない。

まさに、今の時代、全くそうなってしまったのではないだろうか。梶原は1960年代末に変わりゆく価値観に憂いを感じた。このままでよいのだろうか、高度成長に浮かれ、無条件に頑張れば報われる、頑張っただけ儲かるという功利的な、打算的な文化が価値観が台頭して来つつあった。

そうではない、報われるかどうかは結果だ。結果を求めて頑張るのではない、頑張った結果が報われることもあれば、報われないこともある。しかし、頑張ることは尊いことなのだ、報われなくても自分の信念のもと、がんばり続けることが人として大切なことなのだと言いたかったのだろう。

今、時代の結果がでた。報われない努力はしない人々、頑張った結果が報われないとひどく落ち込んだり自暴自棄になったりしてしまう人々・・・

日本の繁栄は、結果を恐れず、報われぬかもしれない努力をひたすらする人々に支えられていたのだ。「努力は報われないかも知れない、それでも努力する姿勢が尊いのだ」ということを伝えきれなかった社会の、大人の致命的な問題が今時代を覆い尽くしている。もう一度とりもどしたい。我々は誰かに認められるために生きているわけではない、ましてや金儲けの為に生きているわけでもない。生きていること、生命力そのものを実感できる生き方、それを何とか取り戻したい。