飛雄馬もさり、明子も去っていった。思い出のつまった長屋に自分一人、無言のままたたずむ一徹。そして、なき妻の遺影に話しかける。

「かあさん・・・

この家で、今、一つの時代が終わった。明子も飛雄馬も自分の羽で飛び立っていった・・・それは それでよし。

 

しかし、新しい時代が始まる。いや、始める!それは、今までが静かに羽を鍛えた風雪の時代とすれば・・・

あらし・・

あらしの時代だ!あらしに向かって、どこまで子供が飛ぶか、親がとばせるか、血だるまとなる時代だ!」

 

 

大げさだ、すばらしく大げさな、親離れ子離れ、自立のストーリーだ。そこまで生きることに一生懸命だということだ。子供を育てることに一生懸命だったということだ。普通は何となく育て、育ち、何となく巣立っていく。境界線も曖昧なまま、離れた後もお互いべたべたし続けるのが今の風潮だ。それはそれでよし!

そういう時代があった、そういう物語が皆に受け入れられる時代があったということだ。心理療法でも、かつて、中心のテーマは「独立依存の葛藤」だった。親との間で成就せず、社会的に足場が安定しない人たちが、心理療法を求めてくる。そして、カウンセラーや医師との間で、独立と依存をめぐって、血だるまのやりとりをし続ける。そういった真剣勝負のような雰囲気があった。

今は、世の中全体が足場を失ってしまい、優しさ病にすべてが犯され、厳しさは無条件に敬遠されてしまう。厳しさなくして優しさもないのに・・

優しい厳しさは根底で無条件の愛、信頼がはぐくまれてこそ意味を持つ。そうではない優しさと厳しさは、ただの暴力でることが多い。暴力をふるう人は、機嫌が良いときはひどく優しいものだ。それは気分に左右されるので、一貫した思想はない。つまり覚悟の上での厳しさではないのだ。

覚悟の厳しさ、深い信頼関係の上に成り立つ厳しさがあってこそ、本当の意味で人は育ち自立の力を身につける。羽を鍛え上げるということだ。しかし、高度成長の最中で大人の中にスキが生まれ、自分の手を煩わせずに子が育つことを期待した時代があった。その付けとして、羽が備わっていないまま、飛ぶことを強要され、子供たちが混乱した。それを押さえつけようと、一貫性のない強圧を行使し、自体はいっそう悪化していった。

結局、地道な積み重ねなくして何も成し遂げられないということだ。子供が自ら飛ぶ羽を鍛え上げるプロセスは、果てしない時間とたゆまぬ大人の関わりが必要だという極めて基本的なことが今、まさに明らかになってきたわけだ。

巨人の星は、その時代でも突拍子もない親子劇だったわけだが、前にも書いたように、日本から失われていく何かを、何とかして守りたいという梶原一輝の思いが反映されているのだ。