
明子は飛雄馬とオズマの対決をみて、同じ野球人形だと直感する。それに動揺して、冷静さを失う一徹。しかも、明子は「同じ野球人形なら飛雄馬は負ける。日本の野球しか知らない一徹に仕込まれた飛雄馬と、大リーグ、カージナルスが総力を挙げて養成したオズマでは、勝負ははっきりしている」という。明子も、一徹に真っ向から反論したのだ。
明子は言う「なんだか、とても悲しい予感がして、それで、つい・・おとうさんの心を傷つけるようなことを言ってしまうの!」
「予感とは・・・いつかは飛雄馬が人形から人間としての独立を求めたとき、お父さんとの別れが訪れること・・・」
いつか子は、自分が親のいいなりに生きてきたことに気づく。そして、そこから離れ本当の自分らしく生きるのだと自立心が芽生える時が来る。それまで親は頑強な壁として立ちはだかり、容易に自立させるようなことはしない。子は、自分が自分になるために、親の保護を捨て去る覚悟で、その壁を越えようとする。これこそが、古き良き時代の親子の対決と、成長の物語だったのだ。
しかし、今は親は立ちはだかるような壁ではない。対決する必要がないから、いつまででも親元にいられる。親元にいても何も違和感がないのだ。親の締め付けがあるからこそ、そこから反発して脱出しようとする。中途半端な壁は、ないよりやっかいだ。親の弱い壁をめぐって、行きつ戻りつするだけだ。子の脅しに屈するような壁ならないほうがまだましだ。
さらに最悪なのは、子の自立まで親が演出しようとすることだ。自立とは、親との対決のはずだ。親の保護を捨て去ってでも自分は自分の思うように生きるという覚悟のことをいうはずだ。なのに、今は、「子供は早くから自立心を持たせた方がいいです」とか幼児教育の段階から、ご丁寧に自立の指導までしている始末だ。そんなものが自立であるものか。
親は厳しく子の前に立ちはだかり、絶対に許さない。それでも反抗するというのなら、もう何も手助けしないから勝手にしろ。半分は本気であり、半分は演出だ。自立をめぐる駆け引きは厳しいものでなくてはウソだ。親元を離れて、自分の身の回りのことを自分でできるようになることを自立だと思っている勘違い野郎が多い。何でも自分でやりなさいだと・・・それは親の手を煩わさない良い子ってことだろう。自立ってのは、もはや親のコントロールの効かない領域に入っていくことであり、しかも、それは単なる反抗や自暴自棄ではなく、極めて慎重な絶対に失敗が許されない位の覚悟でする命がけのチャレンジじゃないのか。
だから、その力がしっかり身につくまでは、とことん親は子を過保護にし、一から十まで生き方を仕込むべきじゃないのか。早い段階からの自立幻想は、単なるわがままで無責任で覚悟のない人間を育てているだけだぞ!といいたい。一徹の超過保護子育てを見習うべし。